お金以上に「失った」もの

離婚届に押された朱色の印鑑を見つめながら、何度も深呼吸を繰り返した。
不思議と涙は出なかった。ただ、胸の奥がぽっかりと穴の開いたように軽い。

弁護士を通じて、不倫相手と綾香に慰謝料を請求した。だが、いくら金を受け取ったところで貴弘の心を癒すものではない。「ごめんなさい」と泣きながら言ったあの声も、今では遠い過去の残響だ。

ローンが残ったマイホームは貴弘がそのまま引き取ることになった。息子たちをどちらが引き取るかはまだ協議中だが、いずれそれも貴弘が望むかたちで決着がつくだろう。
貴弘は潔白で、ほんのわずかな落ち度すらない。すべては不倫をし、家族のための貯金を使い込んだ綾香が悪い。

だが、この空虚さはそれでは説明がつかなかった。

貴弘は息子たちが寝静まったあとの、広く感じられるようになったリビングで独り晩酌をしていた。

「なあ綾香、もう1本だけ飲んでもいいか?」

ふいにそう声に出してしまったのは今日が初めてではない。
綾香が家族をないがしろにしたことは言うまでもない。だがきっと倹約に協力しているという一点だけに寄りかかり、妻を、家族を省みなかったこともまた、同じように落ち度だったのかもしれない。

飲み干した缶ビールと離婚届が並んだテーブルに視線を落とした貴弘の視界が、押し寄せる後悔でほんの少しだけ滲んだ。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。