「必要とされたかった」

朝の光が、ダイニングテーブルの上で冷たく反射していた。貴弘はスマホを握りしめたまま座り、心臓が痛いほど打っているのを感じる。視線の先では、綾香がトーストを焼き、いつも通りの声で言った。

「コーヒー、先に飲んでてね」

「綾香」

自分の声が思った以上に低く響く。彼女が振り返る。

「なに?」

貴弘は黙ってスマホをテーブルに置き、スクショ画面を彼女に向けた。レンという貴弘にとっては見知らぬ男との親密なメッセージのやり取り。
一瞬で、空気が張り詰める。
綾香の手からトースト用のバターナイフが落ち、音を立てた。

「これ……見たの……?」

「ああ、全部見た」

発した声が氷のように冷たいことに、自分でも驚いた。綾香は蒼ざめた顔で立ち尽くし、やがて椅子に腰を下ろした。

「……ごめんなさい」

「ごめんなさいって何だ? 説明してくれ」

貴弘はスマホを指で叩く。
画面に浮かぶ「会いたい」「愛してる」「早く会える?」という文字が視界に刺さる。

「寂しかったの」

綾香の声が震える。

「あなたは仕事ばかりで……家で話しても、うわの空で……。私だって……誰かに必要とされたいと思ったの」

「だから浮気したのか」

貴弘の声が鋭くなる。
「必要とされたい?じゃあ、俺はお前の何なんだ? 子どもたちは? あいつらにも自分は必要ないって思ったのか?」

言葉が止まらない。
「そんなの全部言い訳だろ」

綾香は泣きじゃくりながら叫んだ。
「わかってる!わかってるよ……!でも、あの人は、私に夢を見せてくれたの。キレイだって、愛してるって……言ってくれた」

「で、その“夢”に俺たちの貯金を使ったのか? 家族のために貯めた金を」

貴弘の声がさらに低く、鋭くなる。
綾香は一瞬、目を逸らし、それから小さくうなずいた。

「……旅行とか、プレゼントとか……」

「俺はお前のために、家族のために、ずっと我慢してきたんだぞ。飲み会も断って、3万円の小遣いで……」

視界が揺れる。耳鳴りがする。貴弘は拳を握りしめたまま、吐き出した。

「俺は……何のために働いてきたんだ……」

その言葉は、自分でも驚くほどかすれていた。綾香はテーブルに突っ伏し、嗚咽を漏らしている。だが、貴弘にはもう何も聞こえなかった。ただ虚しさだけが、胸いっぱいに広がっていった。