妻の真実
出勤前のキッチンでコーヒーを飲みながら、貴弘は綾香の横顔を盗み見た。綾香はスマホを眺めながら、ソファに座っている。
――投資に失敗した、ね。
あの夜の綾香の説明を反芻するたび、違和感は濃くなった。
綾香は結婚してからずっと専業主婦だ。家計管理こそ任せていたが、彼女は経済新聞どころかテレビニュースさえまともに見ない。そんな彼女が、投資に手を出すだろうか。しかも、貴弘に一言も相談せずに。
「……家族のため」
彼女の言葉が頭の中で反響する。もし本当にそうなら、なぜ隠していたのだろうか。こんな事態になる前に、ひと言相談があってもよかったのではないだろうか。
それに、最近、綾香の様子を注意深く観察していて気づいたことも気がかりだった。彼女はトイレに行くときも、シャワーを浴びるときも、絶対にスマホを手放さない。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「ああ……行ってくる」
貴弘が玄関へ向かうと、綾香が見送りにやってくる。結婚してから今まで変わらなかった習慣だが、今はどこか形式ばっているように思える。
笑顔のまま手を振る綾香が、なぜか見ず知らずの他人に見えた。
その夜、寝室の灯りを落としたあとも、貴弘は目を閉じられなかった。胸の奥に沈殿した疑念が、脈打つように膨らんでいく。
貴弘はとうとう、隣で眠っている綾香を起こさないようそっとベッドを抜け出し、サイドテーブルに置いてある彼女のスマホを手に取った。
貴弘は一度深呼吸をして、震える指でロックを解除した。暗証番号は、息子たちの誕生日を足した数。
投資先を確認しようと思っただけだった。だがそれらしいアプリはなく、メールにも投資と関連付けられるような内容のものはない。いつ目を覚ますかもしれないという緊張が奇妙な高揚感に変わりつつあった貴弘の指先は、メッセージアプリの緑のアイコンに触れていた。
貴弘や息子たち、実家との個別メッセージや、家族のグループチャット。それらが並ぶなかに、貴弘は見慣れない名前を発見した。
「レン」。
思わずメッセージを開き、スクロールすると眩暈がするような光景が広がった。
「早く会いたい」
「昨日の服、似合ってた」
「君がいないと生きていけない」
淡いピンクのスタンプが画面を埋め尽くす。
さらに送信履歴を追うと、綾香の笑顔の自撮りがいくつも並んでいた。どれも見たことのない表情だった。
「嘘だろ……」
貴弘の中で何かが音を立てて崩れた。
貯金の残高が消えた理由が、唐突に、あまりにも鮮やかに繋がる。
指先が冷たくなり、スマホを置くと同時に、膝がわずかに震えた。
――俺は、今まで何を信じていたんだ。
ため息にもならない吐息が、暗闇に溶けて消えた。