昼休みのチャイムが鳴ると、周囲の社員たちが一斉に立ち上がった。貴弘は一気に人の減ったオフィスに残り、自席で黒い保冷バッグから弁当箱を取り出した。深緑色のゴムバンドを外し、ふたをそっと開けると、ふんわりと卵焼きの甘い香りが立ち上る。
「お、木村さん、今日も奥さんの手作りっすか?」
彼のランチが入っているであろうコンビニの袋をがさがさと漁りながら、部下の宮崎が声をかけてきた。
「まあな」
軽く笑って答えながら、貴弘はプラスチックの箸を取り出した。だし巻き卵、きんぴらごぼう、ほうれん草の胡麻和え。それに白米の上には小梅がひとつ。素朴で、変わり映えのしない組み合わせだ。
「愛されてますね~」
宮崎が冷やかし半分で言う。
「……どうだろうな」
そう返して、貴弘は保冷剤で冷えた白米を口に運んだ。
中間管理職と呼ばれる立場にある貴弘の年収は、1000万円を軽く超えている。40代半ばの同年代と比べても、悪くないと言えるだろう。しかし、貴弘の月々の小遣いは3万円。昼はこうして弁当持参、飲み会は基本断る。経費で落とせるビジネス用品以外、自分の物はほとんど買わない。
「いいなあ、俺なんて3年も彼女なしっすよ」
「その分自由だろ?」
ぼやく宮崎に貴弘は冗談めかして返したが、正直彼が羨ましかった。
3万円という数字は、結婚したときに自然に決まった。綾香の「将来のために貯金しよう」という提案に、貴弘が頷いたからだ。
削れるところを削るのは、間違っていないと思う。長男は来年高校受験、小学生の次男だってそのうち塾通いを始めるだろう。教育費、老後資金、住宅ローン。将来を考えれば仕方のないことだと思った。
全ては、家族のため。息子たちの未来のため。そして――綾香のためだ。
「木村さん、来週の飲み会って参加されますか?」
別の部下から声をかけられたが、貴弘は笑って首を横に振る。
「あー、悪い。その日は予定があるから、みんなで楽しんできてくれ」
「そうですか。了解しました」
本当は予定なんてない。ただ、3000円、4000円が飲み代に消えるのが惜しいだけだが、こう言って断るのが一番楽なのだ。
「相変わらず堅実っすね」
「お前も結婚すれば分かるよ」
宮崎が見透かしたように笑い、貴弘はため息交じりに返した。いつの間にか空になった弁当箱を見つめながら。