母の頼み

仕事を終えて会社を出た瞬間、生温い風が頬をかすめた。

「暑いな……」

駅に向かう道中で信号待ちをしていると、スマホが震えた。画面に映ったのは「実家」の文字。

「もしもし、母さん?」

「ああ、貴弘。仕事終わりかい?」
いつもの柔らかい声。だけど、どこか遠慮がちにも聞こえる。

「うん、今駅に向かってるところ。どうした?」

「……あんたに、ちょっと頼みたいことがあってね 」

母は言いにくそうに言葉を選んでいた。

「実は、家のリフォームを考えててさ。父さん、腰が悪いだろ? 段差をなくしたり、手すりをつけたりしたくて。でも、年金だけじゃ足りなくて……もし、少しでも助けてもらえたらって思って 」

信号は青に変わったが、貴弘は立ち止まったままだった。駅へ向かう人の流れを避けるように道の端へ移動した。

「……そっか。どのくらい、必要なんだ?」

「全部じゃなくていいんだよ。業者に聞いたら、150万くらいだって。もちろん、無理ならいいの。こっちでも何とかするつもりだから 」

母の声が急に小さくなる。無理を言っている自覚があるのだろう。

「いや、いいよ。綾香と相談するからすぐには答えられないけど、それくらいなら出せると思う」

「……そうかい。ありがとう。でも、本当に無理しないでね。あんたの家庭の方が大事なんだから 」

最後にそう念を押して、電話は切れた。
母の言うとおりだ。貴弘には家族がいる。だがリフォーム費用を援助するくらいの余裕はある。

「帰ったら話してみるか」

小さく呟いて、スマホをポケットに戻すと、貴弘は再び歩き始めた。