余裕があったはずの「将来の貯金」は…
家に帰ると、リビングから明かりが漏れていた。ドアを開けると、綾香が貴弘の席に皿を並べていた。息子たちは、既に食事を終えて自室にいるらしい。
「おかえり。今日は暑かったでしょ?」
「うん、ただいま……ちょっと、話したいことがあるんだ」
貴弘が真面目な声を出すと、綾香は不思議そうに首をかしげ、椅子を勧めた。
「実はさ、母さんから電話があってさ。ほら父さん、腰を悪くしてるだろ? それで、家をリフォームしたいって。手すりとか段差の解消とか。その資金を少し援助できないかって言われた」
綾香が一瞬固まった。目の奥が、ほんの少しだけ曇ったのは気のせいだろうか。
「……どのくらい?」
「トータルで150万くらいらしい。もちろん、全部じゃなくていいって」
「ふうん……」
良いとも悪いとも言わない綾香に少し戸惑っているうちに会話が途切れてしまった。やがて貴弘が夕食を食べ終えると、綾香は器を片づけながら、こちらに背を向けて言った。
「それで、さっきの話……お母さん、どうしてそんなに急いでるの?」
「父さんの腰、前より悪くなってるみたいだ。段差とか風呂場の滑りやすさをどうにかしたいんだってさ。俺も、できることなら手伝ってやりたい」
貴弘の言葉に、綾香は皿を伏せて手を止めた。
「……うちも余裕があるわけじゃないでしょ」
「でも、結婚してからずっと貯金してきただろ? 大きな出費の予定もないし100万くらいなら……」
そう口にした途端、綾香がこちらを振り向いた。想像以上に鋭い光を帯びていることに少し驚いた。
「教育費だって、これからどんどん増えるのよ。学資保険も見直しが必要だし、老後だって……」
早口でまくし立てる綾香。正論だと分かっている。だが、なぜだろう。胸の奥がざわめいた。
「もちろん全部は出せないかもしれないけど。でも、一部だけでも助けてやりたい」
「……考えさせて」
綾香はそれっきり口をつぐんだ。まるでこの話は終わりだと言わんばかりに。
リビングに沈黙が満ちた。時計の秒針だけがカチカチと響く。
「……分かった」
そう言って貴弘は視線を落としたが、胸の内には釈然としない気持ちが残った。
◇
夜、貴弘はこっそり寝室の引き出しを開け、通帳を手に取った。貴弘は現実的にどれくらいなら援助が可能なのかを把握しようと思ったのだ。だが、スマホの灯りを頼りにページをめくった瞬間、息が止まった。
残高、数万円。
目を疑って、何度も数字を追う。桁が間違っているんじゃないかと思った。しかし、穴のあくほど見つめても現実は変わらなかった。
「……どういうことだ」
手のひらがじっとり汗ばむ。取引履歴には、定期的に引き出された大きな金額が並んでいる。そのどれもが貴弘の記憶にない。頭の奥で警鐘が鳴る。
妻を疑いたくはないが、今夜の態度を思い出すと、胸の奥がざわついて仕方がない。ベッドの上で寝息を立てる綾香を横目に、貴弘は通帳を握りしめたまま立ち尽くした。
●将来の貯金は綾香が使い込んでいた。消えた貯金の真実とは――。後編『「家族のため」投資で貯金を溶かしたと言い張る妻の裏切り…隠していた「本当の理由」』にて詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。