「すみません、先に上がらせてもらいます」
デスクに散らばった資料を片づけながら、修吾は周囲に軽く声をかけた。終業の定時を1時間ほど過ぎたオフィスには、まだまだ人が残っている。
「どうぞどうぞ。新婚さまは、さっさとご帰宅ください」
冗談めかした口調でからかうのは、隣の席の同僚。
「悪いな、今日はちょっと約束があって」
軽く笑って返しながら、そそくさと会社を後にすると、生温い夜風が頬を撫でた。
入籍してちょうど2ヶ月。結婚生活には徐々に慣れてきたが、まだ既婚者として扱われるのはくすぐったい。
「よし、ギリギリ間に合いそうだな……」
足早に繁華街の喧騒を抜け、いくつか路地を曲がった先に現れたのは小さなビストロ。
店の扉を開けると、真っ先に妻・絵里香の笑顔が目に飛び込んできた。すっきりとしたデザインの、紺色のワンピースを着ている。落ち着いた雰囲気が、彼女によく似合っていた。
「お疲れさま、修吾。今日は早く帰れてよかったね」
「うん、なんとかね」
絵里香の声を聞くと、今日一日の疲れが少しだけ和らいだ気がした。
彼女とは会社で出会った。
営業の修吾と、事務の彼女。入社当時から顔を合わせることは多かったが、本格的に話すようになったのは社内イベントの実行委員を一緒にしたことがきっかけだった。
「注文、先にしちゃった。修吾の好きなビーフシチュー、残り少ないって言われたから」
「さすがだな、ありがと」
気が利くところは、付き合っていたころから変わらない。頼りになる性格と穏やかな物腰に、修吾は自然と惹かれていった。