夢を叶えた人生
「銭湯の日記念です。よかったらどうぞ」
園子は手ぬぐいを両手でそっと差し出した。一色刷りで染めたのは、富士山と湯気の小さな模様。番台の引き出しにそっと入れておいた30枚だけ。1人ひとりに手渡すたび、生地の感触と指の温度がわかる。
「わあ、かわいい」
「使うのもったいないね」
客が笑って受け取っていく。手描きのポスターも掲示板に貼った。中央に太字で「銭湯の日」と書き、その周りにイラストを添える。手ぬぐいの図案を流用しながら、構図はすべて描き直した。
「誰が描いてるんだろうね」
「絵、すごくうまいよ」
知らない声が脱衣所から届く。カフェとのコラボも続いている。「レシートでミルクコーヒー割引」のクーポンは切り取り式にした。湯気のマークを小さく添え、点線も手描きにした。店先で客がクーポンを見比べて笑っていた。
「これ、前のと絵ちがう」
「捨てられないね、これ」
カフェ側のレジ横には、使われた半券が重ねて置かれていた。湯気の絵がずれていたり、線がかすれていたりしても、誰も文句を言わなかった。親子連れ、学生と高齢の常連、ランニング帰りの若者。番台の横を、それぞれのリズムで通り過ぎていく。
◇
ある日の閉店後、佐々木がふらっとやってきて小さな声で言った。
「あんたには感謝してる」
「何言ってるんですか、お礼を言うのは私の方ですよ。会社員のときよりずっと人生楽しいです」
「そうか」
「そうです」
しばらく黙ったあと、佐々木がぽつりとつぶやく。
「湯はいいもんだな」
園子は黙ってうなずいた。その言葉の意味が、少しずつ自分の中に染みわたっていくのを感じながら。
番台を閉めて掃除に向かうと、浴室は静かだった。桶をひとつずつ重ね、シャワーの蛇口を確かめてまわる。照明を落とすと、富士山の山頂だけがぼんやり光って見えた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
