陽子は、湯気の立つ味噌汁を食卓に置いた。

夫の栄司は出張中で、家には自分しかいない。いつもなら「遅い」「要領が悪い」と文句を言われないよう、無意識に急いでいたのに、今日は手を止めて湯気の動きを見ていた。

「これが、普通の朝だったらいいのに……」

思わずこぼれた独り言に、陽子は苦笑した。

結婚して30年。2人の子どもはそれぞれ就職し、独り立ちしている。これまでは、“家族のため”という旗を掲げて、自分を納得させていた。夫に暴言を吐かれても「自分が至らないだけだ」と思い込んでいたし、姑に「嫁は忍耐」と言われれば、そういうものかと飲み込んでいた。

ところが数年前、ニュース番組で初めて「モラハラ」という言葉を聞いたとき、陽子の中に衝撃が走った。ネットで調べてみると、自分がこれまで「普通」だと思っていたことが、普通ではなかったことに気づかされた。

人格を否定する言葉。無視。過干渉と束縛。金銭の支配。

——これ全部、あの人のことだ。

膝の上に置いた手が震えた日を、陽子は忘れない。結婚してから初めて、「私は怒っていい」と思えたのだ。

モラハラに気づいた陽子

それから陽子はパートを始め、独りになったときの生活のために少しずつ貯蓄を増やしてきた。来るべき時に向けて、準備をしておかなければと思ったのだ。

——そろそろ、決着をつけないと。

箸を置き、陽子は立ち上がった。リビングのカーテンを開けると、秋の光が差し込んだ。色づき始めた庭の柿の葉が、ゆっくりと風に揺れている。

こんなふうに、穏やかに暮らせたら。

そんなことを願うのは、わがままではないはずだ。

陽子は電話台の上に置いてあった小さなメモを見た。そこには、数日前に書いた一文がある。

「栄司さんに伝える」

震えながらも、我ながらしっかりとした文字だった。

陽子は自分の肩にそっと手を置いた。夫の言葉に怯えて、感情を押し殺してきた年月。そのすべてが今、ここへつながっている。これから先がどうなるかは正直なところわからない。でも、自分の人生を生き直したいと思った。その気持ちは、確かだった。

週末はもうすぐそこまで迫っている。