諦めた夢を銭湯で再び

そして夜、誰もいない浴室。湯も張っていない、からっぽの空間に園子は脚立を立てた。

「緊張する……」

目を閉じて、昔を思い出す。大学にも行けず、投稿も通らず、夜勤明けにワンルームの床で仮眠して、それでもまた描いていた頃のこと。描くことだけはやめられなかったのに、気づけば道具をしまったまま、何年も経っていた。

「……よし」

壁に向かって、マスキングとペイントマーカーで下描きを始めた。ゆっくりと、山の頂から裾までペン先を走らせる。描いているあいだ、外の音も、時間も、全部遠くに引いていった。下描きを終え、今度はペンキ缶の蓋を開けた。青と白。刷毛に含ませると、その分重さが腕に伝わった。

最初の一塗りは、呼吸の深さと一緒に壁に吸い込まれていくようだった。色を重ねながら、塗った部分が少しずつ乾いていく。湿気の多い壁でも、絵の具は定着した。刷毛を動かすたび、身体中に血液が巡るような気がした。

最後に山のふもとを塗り終えると、ふと後ろから声がした。

「へえ、見事なもんだね」

佐々木だった。

園子は振り向かず、しばらく生まれたての富士を見つめ、やがてそっと刷毛を置いた。

「奥さんにも気に入ってもらえるといいんですが」

「気に入るよ」

「……ありがとうございます」

営業再開に合わせて、ポスターを数枚描いた。

「朝湯は朝7時から9時」「今月の薬湯はよもぎ湯」

隅に湯桶やアヒルのイラストを添えた。回数券とスタンプカードも印刷し、近隣の掲示板に貼り出した。そわそわしながら番台に座っていると、脱衣所の向こうから、声が聞こえた。

「これ描いたの、あの人なんだって。新しいオーナーの」

「なんか落ち着くな、この富士」

顔は見えなかった。でも、笑い声が湯気の奥に混ざっていた。

その晩、園子は掃除をしながらそっと壁を見た。乾いた絵の具の表面が、つやつやと光っている。かつて諦めた絵が、今、湯気のなかで確かに生きていた。