言ってはいけなかった一言
「お母さん、ただいま」
買い物を終えた朱美が立て付けの悪い玄関を開けて中に入ると、静枝はいつもの場所でテレビを見ていた。
「ああ、お帰り」
「どう、調子は?」
静枝は首を横に振る。
「もう全然ダメ。体が言うことを聞いてくれなくて、ほんと嫌になっちゃう」
「なんか気温も上がったり下がったりで変だもんね。あったかいお茶でも入れようか?」
「じゃあお願いしようかしら」
朱美は買い物袋を下げたまま台所へと向かい、水をくんだやかんを火にかける。
流し台には2日分の洗い物が置かれている。静枝はこまめに立ったり座ったりする動作が難しいので、洗い物は何日分かをまとめてやるか、朱美が来た時に片づけるようにしている。現状はこれで済んでいるが、静枝の衰えがこれからもっと進行していけば、流し台にまで食器を持って行くことすら難しくなるかもしれない。
頭を過ぎった嫌な想像をかき消すように、お湯の沸いたやかんが鳴った。朱美はお茶っぱを用意して急須でお茶を入れた。
「ねえ、お母さん、やっぱり私たちと一緒に住む気にはならない?」
朱美がそう言うと、静枝の表情がこわばる。
「……私はここを出るつもりはないよ」
「どうして? もうここには1人しかいないんだよ?」
「嫌だ。私はここを出ない」
朱美は静枝にすり寄る。
「でもね、もうこの家は古くもなってるし、いつまでもってわけにはいかないでしょ? 取り壊すなら私たちがまだ元気なうちにやっておきたいって思うし」
そこで静枝が鋭い視線を朱美に向ける。
「取り壊し? あんた何を言ってるの⁉ ここは私たちの家なんだよ⁉ ふざけんじゃないよ! どうして取り壊されなくちゃならないんだ⁉」
静枝のけんまくに朱美は驚いた。静枝がこんなに怒りをあらわにするのを見たことがなかった。
「で、でもね、毎回ね、お母さんの世話のためにここに来るのは大変なのよ。一緒に住めば、世話だって楽になるんだから」
静枝の怒りに動揺していた朱美は、口走った瞬間すぐにしまったと思った。静枝の顔から表情が消え、ガラス玉みたいに何の感情も宿さない目が、まっすぐに朱美を映していた。
「嫌ならもう結構。私は1人で生活をするよ。今までだってそうしてきたんだから」
もはや取りつく島もなかった。朱美は初めて、親子間で溝が生まれたような気がした。
●一度口から出た言葉は取り消せない。そして母が頑なに同居を嫌がる理由は……? 後編【「私は1人で生活するよ」要介護の実母がかたくなに同居を拒みつづけた「まさかの理由」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。