冷蔵庫から取り出した缶ビールを、勢いよく喉へと流し込む。仕事帰りの疲れた身体にしみわたるアルコールは、公平の生きる源だった。
今年で35歳になる公平だが、独身でほとんど料理はしない。だから夜のほとんどはビールと買いためてあるてきとうなさかなで済ませてしまう。
1本目を冷蔵庫の前であっという間に飲み干し、2本目に手をつける。リビングへと移動して、ソファに浅く腰かける。
しかし仕事中に母親の亜紀から着信があったことを思い出すと、リラックスした気分は一瞬でかき消えた。どんな用かは知らないが、放っておくのも気が引けた。
公平は仕方なくスマホを手に取り、電話を折り返した。
『公平くん? 久しぶり』
まるで待ち構えていたかのようにワンコールで出た亜紀に、公平は反射的に身構えた。
「久しぶり。……昼間の電話、どうかした?」
さっそく用件を切り出すと、亜紀が小さく息を飲んだのがスマホ越しでも分かった。
『実は、博義さんがね、公平くんと山登りをしたいって言ってるの』
「……は?」
思わずけんのんな声が漏れた。
たしかに公平の父、博義は山登りを趣味にしている。休みの日になると、博義はよく朝早く家を出て山登りに向かっていた。小学校高学年や中学のころだったが、公平も何度か付き合わされたことがあった。
だが、あの日以来、公平は1度たりとも山へは登っていない。脳裏をよぎった言葉は、そのまま口からこぼれていた。
「何考えてんだよ」
『……ごめんなさい。理由はちょっと分からないんだけど、ふと博義さんがそう言っててね。もし都合がつきそうな日があったら、教えてほしいの』
勝手だ。今度は心にとどめてそう思った。
「ちょっと待ってよ。俺だって忙しいし、山登りなんてもうほとんどやったことないんだぜ。それにさ――」
言いかけた言葉は寸前のところでのみ込んだ。代わりに公平は握っていた缶ビールを乱暴に呷(あお)った。苦い味に連れられて、嫌な記憶がよみがえった。
『博義さんもほら、もう年だから。いつまでも登れるわけじゃないし、最後に1度くらい、息子と一緒に登りたいんじゃないかなって』
「……それ、マジで言ってんのかよ」
『とにかく連絡してあげて。博義さん、喜ぶと思うから』
公平は生返事を返し続け、半ば強引に話を終わらせた。通話を終えたスマホを机の上に投げ出し、空になって軽くなった缶を机にたたきつけた。
「なんだよ、今更……」