不仲だった父と久しぶりの登山

山登りの出発地点である東日原バス停が待ち合わせ場所になったのは、公平が前泊で実家に帰ることを嫌がったためだった。

思った以上に風が冷たい。家を出たときと今の場所はまるで空気が違う。携帯を見ると、圏外になっていた。異世界に迷い込んでしまったみたいな気分だった。

見上げると高く鋭くそびえ立つ鷹ノ巣山がこちらを見下ろしている。想像よりもはるかに雄大で大きな山を前に、公平はこれを登るのかと生唾を飲み込んだ。

すでに博義はバス停の近くで公平のことを待っていた。

公平は何を言っていいのか分からず、黙って近づいた。

前に会ったのが何年前だったかはもう思い出せないが、記憶にある父よりも白髪が増え、生え際も後退したような気がする。とはいえいまだに山登りに出掛けているだけあって身体は頑健そうで、少なくとも公平よりは健康的な見た目をしていた。

「……なんだそれは? そんな薄着で来たのか?」

公平の格好を見た博義は、眉間へと露骨にしわを寄せた。公平はアンダーウエアに、フリース素材の長袖を1枚重ねて着てきた。一方の博義は防水や防風にも優れている登山用のアウターを着込んでいる。

「何でだよ? これから山登りするんだから、暑くなるだろ?」

「山をなめるんじゃない」

博義は吐き捨てるように言って、独り勝手に歩き出す。

公平はすでに、来るんじゃなかったと後悔をしていた。あの仏頂面や不愛想な背中を見ていると、嫌いだった父とのうっとうしい記憶が次々によみがえった。

息が詰まる家だった。

博義はいつも仏頂面で、亜紀はいつも公平に気を遣っていた。こんなおやじに嫁ぐことになって、母さんも散々な人生だなと公平は思っていた。

博義が口を開くときは大抵、何か公平をしかったり、注意をしたりするときだけで、褒めてもらった記憶はない。友達と遊んで帰りが遅くなれば文句を言われ、ちょっと反抗すればすぐに手が出た。

だから一刻も早く家から出たい一心で勉強をした。別に行きたい大学なんてなかったし、やりたいことなんてなかった。ただ、家から、父親から解放されたいだけだった。

1人暮らしを始めて、ようやく自分の人生が始まったように感じた。当然、実家にはめったに帰らず、2人と顔を合わせる煩わしさもなくなった。

寂しいと思うことなんてなかった。

むしろ博義と顔を合わせずに済むことを喜んでいた。

博義だって、公平と交流を持とうなんてそぶりはなかった。距離と時間が隔てたぶんだけ、公平と博義は疎遠になった。それは2人にとって望ましいことのはずだ。

なのに、どうしていきなり誘ってきたりしたんだ?

公平は疑問を抱きながら、博義の後を追った。最初こそ民家などもちらほらあるような補正された坂道を歩いていたが、いきなり脇の小道に入ってからは人が1人通れるくらいにまで道幅が狭くなり、あたりは木々一色になっていた。

最初は自然豊かな風景の豊かさに気持ちが踊っていたものの、すぐに足腰が重くなり、呼吸が苦しくなっていった。

よくよく考えれば、公平自身、運動をほぼしていない。仕事はデスクワークで、車で通勤をしている。休みの日も必要に駆られて買い物に出掛けるくらいで、基本は家でダラダラしていることが多い。

そんな人間がいきなり山登りなんて無謀すぎた。

それに比べて、博義の足取りは軽い。公平はいら立った。まるで公平の体力のなさをダシにして、自分の屈強さを見せつけようとしているようだった。

いつもそうだ、あんたはいつも、こっちの気持ちなんて知らず、勝手に物事を進めるんだ。

それからもよどみなく足を運ぶ博義に追いすがって、公平たちはようやく休憩所にたどり着いた。公平は服が汚れるのもいとわずに、そのまま地べたに座り込んだ。

「遅すぎる。もう少し何とかならないか」

博義は公平の横に立ち、涼しい顔で水分補給をしていた。公平は、知らねえよ、と言いたかったが、声が出なかった。怒りが湧いてきたが、言い争う力もなかった。

「なあ、公平」

博義はこちらを気遣うそぶりもなく、話しかけてくる。

「……ちょっと、疲れてるから、話しかけるなよ」

「……そうか」

公平が向けたいら立ちを避けるように、博義が目を伏せた気がした。

しかしそれ以上、何かを気取れる余裕が公平にはなかった。

それからも気力をふり絞っての登山が続き、公平は博義に大きく引き離されることなく、なんとか無事に鷹ノ巣山の山頂に到着した。

しかしせっかく登った頂上からの景色を楽しむ余裕は全くもって与えられなかった。

「早く降りよう。日が落ちるまでに何とか下山しないと」

「はぁっ? せっかく登ったんだぞ」

本当に何のために誘ったんだ。公平は心中の不満を吐露する余裕もなく、山を下りていく博義の背中を追いかける。

下山は下りだから登りよりは楽だろうと、公平は思い込んでいた。しかし足腰が疲れ切っている公平にとって、毎回踏ん張らないと行けない下りのほうがはるかにつらかった。

1歩踏み出す度に膝が激痛に襲われる。激痛と疲労が、不満といら立ちが増幅させていく。

どうして、こんなことを俺はしてるんだ。

明日も仕事だ。こんな状態で満足に仕事なんてできるわけがない。かといって休めるわけない。

こんな山登り、そもそも来たくなかった。

公平は足を止めて息を整える。

すると、博義が心配した顔で近づいてきた。

「荷物を貸しなさい。俺が持ってやろう」

差し出された手の無遠慮さに、公平の怒りが限界に達した。勝手にこんな場所に呼び出しておいて、父親のように気遣われたことが癇(かん)に障った。

「うるさい! 触るな!」

公平は思い切り、博義の手を振り払おうとした。

しかしその瞬間に、足を取られ、体がそのまま山の斜面に吸い寄せられていく。

そこから強烈な衝撃と共に、視界が真っ暗になる。