<前編のあらすじ>
弘美は頭を抱えていた。
理由は夫の健司である。56歳の健司は弘美に一度の相談もなく、早期退職を決めてきた。何かつらいことがあったのなら、やめられて良かったのかもしれない。聞けば早期退職することで退職金が2倍になるという。自分がパート勤めをしているお金もあれば、しばらく生活には困らないかもしれない。
努めて前向きに考えようとする弘美だったが、健司の次の一言でついに怒りを爆発させてしまう。
「蕎麦屋をやるぞ」
健司には蕎麦打ちの経験など、ほとんどない。
にも関わらず開業資金はどうするのかと聞けば、大事な退職金を原資にするという。しかも、弘美が従業員として働くことを前提に計画を進めているらしかった。
開業日は7月2日を検討しているという。健司は知らなかったようだが、その日は「うどんの日」として知られていた。
もうワケがわからない。
怒りと困惑を隠せないでいる弘美の姿を意に介すことはなく、健司は蕎麦屋開業に向けて突き進んでしまう。
前編:“50代未経験、脱サラで蕎麦屋” 妻に何も相談せず早期退職した夫が退職金を原資にはじめようとした無謀な挑戦とその結末
何もわからない……。
健司は弘美の話などなかったかのようにオープンに向けての準備を進めていった。
電話で何か話をしているのは聞こえるが、それがどんな内容で何をやっているのかを弘美は全く知らない。もちろんどこに店を出すのかすら知らない。
もちろん弘美としては、まだ蕎麦屋をやることには反対で、パートだって辞めるつもりはなかった。百歩譲って健司が蕎麦屋を始めることは止められないとしても、ギャンブルのようなことに付き合うよりかは自分だけでもしっかりとした収入を持った方がいいのではないかという考えがあった。
そんな日々が続いていたあるとき、佐夜子から電話が掛かってきた。佐夜子は就職してから他県に配属され中々、会うことができないでいた。佐夜子は軽い近況報告をしてからこちらに質問をしてきた。
「そっちはどう? お父さんが仕事を辞めたのは聞いたけど仲良くやってる?」
「……うんまあ、ぼちぼちって感じよ」
「ふーん。喧嘩とかそういうのはないの? 何か一緒にいる時間が長くなると気まずくなるとか話をきいたことあるよ」
「……まあそうね。うん、まあ、ないことはないけどね。別にいつものことだしさ」
弘美が何とか返事をすると、佐夜子はすぐに反応する。
「何? 何かあった?」
「え? どうして?」
「いやさすがに変でしょ。メチャクチャ何か隠してる感じが出てるよ。何かあったのなら話してみてよ」
「いや何もないよ」
弘美は感情を押し殺して答える。だが佐夜子は引き下がらなかった。