キッチンの時計は午後7時を回っていた。絵美は味噌汁の火を止めて、食卓に3人分の箸を並べた。すると玄関のドアが開く音と、「ただいま」という娘の美咲の声がした。
「おかえり。もうすぐご飯だから早く着替えて来て」
中学生になった美咲は部活にこそ入ってないものの、かなり熱心に教えてくれる絵画教室に通っているので、帰りは部活生並みに遅かった。
「うん、分かった」
美咲は軽い足取りで廊下を歩き、部屋に向かっていった。絵美はテーブルに2人分のハンバーグを先に並べ、美咲が戻ってくるのを待って食事を始めた。
「先生から色の使い方が上手だって言ってもらえてさ。それで今度、コンクールがあるからそれに向けて作品を描かないかって」
「へえ、コンクールかぁ。そういう目標があるほうがやる気出るかもしれないわね」
絵美の言葉に美咲はうなずいた。
夫の不倫発覚後の5年間
このマンションには美咲が生まれてすぐのころに引っ越してきたので、住み始めてもう13年になる。美咲との時間は絵美にとってかけがえのないものだ。しかし24歳で結婚し、今年で14年を迎える結婚生活はそうではなかった。
盛り上がっていた話に水を差すように、玄関のドアが開いた。やがて、リビングのドアが開き、夫の義之が姿を見せた。
「ただいま」
「おかえり。早く着替えて来て」
絵美は義之の分のハンバーグを用意して、3人で食卓を囲んだ。しかし母娘2人で話していたように会話が弾むことはない。黙々と箸と食器がこすれる音ばかりが静かなリビングに響いている。
時折、義之は美咲に話しかけはするものの、話しかけられるたびに美咲が気まずそうな顔で絵美の様子をうかがうので、話は弾むことなく、食卓の重たい空気にじっとりと沈んでいってしまう。
家族が――もとい絵美たち夫婦がこうなってしまったきっかけは、5年前に発覚した義之の不倫だった。
義之が他の女と繁華街を歩いているところを見たという報告を友人から受け、問いただしてみると義之はあっさりと認めた。泣きながら謝ってくる義之を絵美は受け入れることにしたが、それは別に許したことを意味しなかった。
いうなれば必要悪。まだ美咲は小学生だったし、絵美自身も美咲を妊娠したときに寿退社していたから、美咲を育てるためにも義之は必要だった。
だから我慢したというわけだ。けれど、そろそろもういいだろう。
不倫発覚以来、別々になった寝室でひとり、絵美はタンスの奥にしまい込んでいた離婚届を引っ張り出す。
あれから絵美は正社員の仕事を見つけ、必死に働き、たった1人でも美咲を育てていけるだけの準備をしてきた。離婚届にはもう、必要なことはすべて書いてある。
絵美は自分の意志を確かめるように離婚届にじっと視線を落としたあと、大切そうにそれをしまった。そして深いため息を吐いた。
離婚をするならば美咲ともう1人、話しておかなければいけない人間がいた。
