夫からの提案
夫と2人暮らしになってしまったマンションの寝室には、黒のランドセルが置いてある。
小学2年のとき、遊具からの転落事故で死んでしまった息子・翔平が使っていたものだ。
事故があった当時は早苗もひどくふさぎ込んだ。どうして1人で遊びに行かせたのかと、小学2年にもなれば普段から遊び場について行ったりすることはなくなっているのに、自分のことをひたすらに責めた。
セラピーやカウンセリングに通い、夫と2人で過ごす時間のなかで傷を癒やしてきた。もちろん翔平のことは忘れることができないし、毎年翔平の誕生日や命日がやってくると涙が止まらなくなるけれど、それでも前を向きながら生きている。
「そんな子供がいるのか……心配だけど、あんまり深入りすると、その子の親も嫌がるんじゃないか?」
晩酌をしているとき、アルコールのおかげもあって口が緩んだ早苗は夫の竜次に勇太のことを話していた。もちろん秘密にしていたわけじゃない。けれど竜次には余計な心配をかけないよう、言わないでおいたことも事実だ。そしてやっぱりしゃべってしまった今、竜次が早苗のことを心配しているのが伺える。
「そうかもしれないけど、放っておけないじゃない。年のせいで、お節介が止まらないのね」
だから早苗は自嘲するようにそう言った。もう私は大丈夫と、口にはしない言葉を目線だけで伝える。竜次にもそれは伝わったのか、静かにビールを口に含んだ表情は穏やかだった。
「それならせっかく弁当屋なんだし、子ども食堂でもやってみたらどうだろう? 近所のおばさんにご飯を振る舞われてるより、そういうもののほうが親としても安心してお願いできそうだし。今、いろいろやってるみたいだよ。お代はいつでも大丈夫で、小学生に簡単な食事をふるまってる定食屋とか、そういうの」
「いいわね、それ。パートの身分じゃ難しいかもしれないけど、店長に相談してみるだけならありかも」
「俺もやり方とか調べてみるよ。その子、喜んでくれるといいな」
●子ども食堂を開業する夢、早苗は実現できるのだろうか。 後編【子ども食堂に乗り込んできた母親を泣かせた40代パート女性の「意外な一言」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。