脱サラ銭湯修行のスタート

翌朝、早朝6時。園子の修行は、まず掃除から始まった。

「湯はあと。先に拭け。濡れるからな」

佐々木は短く言い、黙って床を拭き始めた。園子も真似て膝をつき、雑巾を押す。タイルの間から水のにおいが立ちのぼった。

「これ、ひび入ってますよね」

「知ってるよ。10年前からだ」

「お客さん、文句言いませんか?」

「もう誰も言わないな。というか言うやつはもう来てない」

照明がチカ、と音を立てた。園子が見上げると、蛍光灯の端が黒ずんでいた。

「そうですか……」

昼、番台の引き出しを整理していると、分厚い帳簿が出てきた。紙は黄ばんでいて、文字は手書き。平成の初めから、数字が並んでいる。水道代、電気代、ガス代。すべて右肩上がりで、赤ペンで何度も修正されていた。売上はじわじわと減り、最後の数ページには空白も多い。

帳簿を手に家に戻ると、佐々木が読み終わった新聞を畳んでいた。

「……経営、結構きつかったんですね」

佐々木は視線だけこちらに向けた。

「ああ。そりゃな」

「でも続けてたんですね」

「そりゃ湯は1人じゃ沸かないからな。やるしかなかったよ」

その言い方に、何かを誇る様子はない。

午後は、薬湯の仕込みを教わった。佐々木は袋の裏に書かれた数字を見ながら、手のひらで粉を量った。

「スプーンとかないんですか」

「目分量のほうがうまくいく」

「それ、料理と同じですね」

園子も真似て粉をすくい、湯に撒いた。湯面がふわりと揺れて、手の重さを少しだけ感じた。

「火の扱いは、音で覚えるんだ」

ボイラー室の扉を開けながら、佐々木が言った。低く唸る音と、不規則なパチパチという火のはぜる音。

「今日は42度ちょいだな」

メモの余白に、園子は「耳」とだけ書いた。

夜には裏の部屋でノートを開き、今日の作業を記録した。

その端に、なんとなく富士山を描いた。色あせてほとんど見えなくなった浴室の壁画が思い浮かんだからだろう。山の稜線をなぞる手には、不思議と迷いがなく、いつまでも止まらなかった。

●会社を辞め、銭湯を継ぐことになった園子。老朽化した施設、赤字の帳簿など、課題は山積していたが、銭湯再起の夢とかつての夢が重なる園子は…… 後編【赤字の帳簿…古びた銭湯を生まれ変わらせるために、脱サラOLが湯気の富士に誓う再起の商い】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。