しじま湯の閉店に心がざわつく園子
翌朝もいつもと同じ時間の電車に乗る。メールは朝のうちから大量に届き、午後には未達成のタスクの山が積み上がった。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「あ、ああ……お疲れ」
帰宅は17時過ぎ。部屋の明かりをつけて、園子は少し立ち尽くした。
「疲れた……」
台所の椅子に鞄を置き、何となくクローゼットを開け、奥の箱から、白いスケッチブックを取り出した。
表紙の角がめくれた使い古しのページを繰ると、人物や風景の鉛筆画が次々に現れる。
美大受験に落ちてから3年、フリーの絵描きを名乗っていた。デザイン事務所の下請けでカットを描いたり、知人の店のチラシを作ったり。誰の記憶にも残らない仕事ばかりで、実際名前が載ることもほとんどなかった。投稿もしたが返事は来なかった。バイトのシフトに追われ、気づけば絵を描く時間が減っていった。
そして27の歳、夢をあきらめた。就職情報誌を買い、手近な会社に履歴書を出した。その結果が今だ。
「早いな、あれからもう8年か……」
紙の上に指を滑らせると、線を撫でる音が、部屋に響いた。ざらつく紙の手触りは、ずっと遠くに置いてきたもののように思えた。
◇
定時で退社した園子は、再びしじま湯を訪れた。佐々木は変わらず番台にいる。来客は少なかった。湯に浸かって、いつもより早く出た。
そして脱衣所で髪を巻き上げたまま、園子は番台に近づいた。事前に考えていたわけじゃない。ただ、深いしわの刻まれた佐々木の顔を見た瞬間、言葉が口から滑り出た。
「……ねえ、佐々木さん。私がやっちゃだめですか」
佐々木は手にしていた小銭を皿に戻し、顔を上げた。園子を見て、眉を上げたまま数秒黙った。
「なにを?」
「この、銭湯を。引き継ぐとか、そういうの……」
自分でも何を言ってるのか分からなかった。言い終えてから、耳が熱くなるのがわかった。
佐々木は軽く鼻を鳴らした。
「……あんたが?」
「……はい」
佐々木はしばらく何も言わなかった。時計の音だけが聞こえた。
やがて、彼は少し笑うように口の端を動かしながら、ぽつりと言った。
「湯は甘くないよ」
それだけだった。
園子はうなずいたが、自分でもそれが返事なのか分からなかった。
