定時を5分過ぎた頃、園子はパソコンで退勤時間を入力した。画面には未読メールが11件。デスクの端には冷めた紅茶と、開封されぬままの会議資料。それらを素早く片付け、そそくさと立ち上がる。

「お疲れ様でした。お先に失礼します」

「あ、林さん……お疲れ」

何か言いたげな上司の声は背中で聞き流した。エレベーターで1階まで降りたときには、外はすっかり暗くなっていた。

「わあ、寒……」

会社からの帰り道、園子は自分自身を抱きしめるように身をすくめながら歩いた。

園子にとって必要な場所

しばらくすると、信号を2つ渡った路地の先に、銭湯「しじま湯」が見えてきた。

色褪せた暖簾が風に揺れている。園子は引き戸を開け、靴を脱いで中へ入った。途端に暖かい湿気が顔を包む。

「いらっしゃい」

番台の佐々木が言った。このしゃがれ声を聞くたび、不思議と肩の力が抜けていく。

園子は軽く会釈をしてから、脱衣所に向かった。浴場に行くと、湯船には顔なじみが浸かっていた。

「あ、どうも」

「こんばんは」

短く挨拶をしたきり、特に会話はない。

いつも通りだ。

お互いに名前も年齢も職業も知らない関係。だからこそ、余計なことを考えずに済む。人間には、そういう場所が必要なのだと園子は思う。

「あぁ……」

園子は肩まで湯に沈んで目を閉じた。聞こえるのは湯のはねる音と、誰かの鼻歌。長い長い1日が溶けていくようだった。

   ◇

湯上がりに髪を拭きながら、脱衣所の壁に何か貼られているのに気づいた。

〈店主高齢のため閉店いたします 長らくのご愛顧ありがとうございました〉

思わず目を疑った。だが、何度読み返しても文面は変わらない。首にかけたタオルの端を握ったまま、園子は番台に近づいた。佐々木は普段通りの表情で、置物のように座っている。

「あの……あれ、本当なんですか。閉店するって」

園子の問いに、佐々木は軽くうなずいた。

「そう。月末で終わり。長いこと、ありがとうね」

それだけだった。

園子は返す言葉を探せず、ただ頷き返した。ぼんやりしながら身支度を整えて外に出ると、夜風が首筋をなでた。

「そっか、なくなっちゃうのかあ……」