一大決心をした園子
外に出ると、夜風が一気に頬を冷やした。その夜、園子はあの銭湯の空気を思い出していた。木の床、壁に掛かった時計の音、誰かの咳払い。鍵の束が鳴る音。脱衣所に漂う、湿ったタオルと湯気の匂い。
園子は想像の中の温かな湯気に包まれて、ゆっくりと目を閉じた。
◇
「本当に辞めるのか?」
課長の声は、驚きと呆れとが半分ずつ混ざっていた。園子は机の上に封筒を置いたままうなずいた。
「はい。ありがとうございました」
「なんかあったのか? まさかハラスメントとかじゃないだろうな」
「違います。ただ、自分のことで……やりたいことができて」
課長は眉をひそめたまま、何も言わなかった。書類はその日のうちに処理された。私物を詰めた段ボールを宅配で実家に送り、最小限の引き継ぎだけ終える。送別会は断った。最後の日、後輩の1人が「おつかれさまでした」と小さい花束をくれた。
「ありがとう」
退職後、部屋を引き払った園子は、しじま湯の裏にある六畳の和室に移り住むことになった。
再び「銭湯を継ぎたい」と宣言した園子を、佐々木は意外にもあっさりと受け入れ、住み込みを許可してくれた。部屋の畳は少し湿っていて、押入れの天井には水染みがある。しかし、そんなことは気にならないほど園子の心は高揚していた。
古い鏡台の前には、ノートと鉛筆を置くことにした。
「寝るだけなら、ここで十分だろ」
佐々木が言いながら、番台の鍵を園子に渡した。手にずっしりとした金属の重さが残った。
