すべてが変わってしまった
「父さん、たぶん、母さんと一緒に暮らしたこの家を離れたくないんだろうな」
続けて優しい声でフォローした浩平に、静子はため息をついた。父を尊重したい兄の気持ちも分かるが、現実を考えれば、ずっとこの家で暮らすのは無理がある。しかし、ここで無理に説得したところで逆効果だろう。
「お父さんに、お茶でも淹れ直そうかな」
独り言のように言いながら棚を開ける。しかし、目当てのものがない。
「……あれ?」
棚をもう一度探したが、ない。茶葉も、お茶パックも、すっからかんだった。
「お兄ちゃん、お茶っ葉ないみたいなんだけど」
「あ、そっか……今度来たときにって思って忘れてた」
静子は苦笑いしながら振り返る。
たったこれだけのことでも、少しずつ、この家の中の「隙間」が広がっている気がした。母がいたころは、こんなことなかった。必要なものはいつもちゃんと揃っていて、足りないものなんて、なかったのに。
「じゃあ、私買ってくるよ」
静子はカーディガンを羽織り、玄関へ向かった。
「父さんの車、借りてもいいかな?」
「うん、気をつけてな。鍵、たしか玄関の1番上の引き出しにあったはず」
律儀に見送ってくれる浩平に軽く手を振りながら、静子は実家の車庫に向かった。
父の愛車に乗り込んで窓を開けると、夕方の風が顔を撫で、どこかで虫の声が微かに聞こえる。暗い気持ちを振り払うように、静子はアクセルを踏み込んだ。少し頼りないエンジン音が耳に心地よかった。
ハンドルを握りながら、静子は自然と昔のことを思い出していた。
まだ静子が小学生だったころ、父が運転する車に乗って家族でよくドライブに行った。帰り道は大抵、後部座席で眠ってしまった静子。半分まどろんだ状態で、目を開けると、前の席で父と母が笑い合っていた。
父の手はしっかりとハンドルを握り、母は楽しそうに何か話しかけている。2人の柔らかい笑顔を見て、静子は子どもながらに邪魔をしてはいけないような気がして、そっと寝たふりをした。あの時間が、ただただ心地よかった。たとえどこへ向かうか分からなくても、同じ空間に両親がいて、兄がいる。そんな漠然とした安心感を、幼い静子は確かに感じていた。
しかし何もかも変わってしまった。助手席の母はもういない。あんなに頼もしかった父も、痩せて小さくなってしまった。
赤信号で車を止めながら、静子はぼんやりと空を見上げた。
●買い出しを終え、スーパーの駐車場に止めた車に戻ろうとする静子だが、何やら様子がおかしい。なぜか車の近くに警官が立っているのだ。身に覚えのない事態にたじろぐ静子に警官が告げたこととは。そして、予想だにしていないトラブルが静子を襲う。後編:【自動車税を払い忘れ、車検が…車を愛していたはずの父の変貌に驚愕した40代の娘が決意したこと】にて詳細をお届けする。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。