「ねぇ、上野さぁん」
名前を呼ばれた佳世は肩を強張らせた。クロスで机を拭く前かがみの姿勢から振り返ると、部屋の入口には松本が立っていた。
「ちょっと、403号室」
佳世は清掃作業の手を止めて、眉間にしわを寄せている松本の後ろに続く。ついさっき佳世が清掃を終えた403号室は、きれいに整っているように見えたが
「何度教えたら分かるのかしら? マットレスの角を見てごらんなさいよ」
「はぁ」
「シーツの折り目はマットレスの角にそろえるの。ねぇ、これ何回目?」
「すいません……」
よく見れば確かに少しずれているのかもしれない。けれど寝転がればすぐずれるものだし、マットレスの側面にくるシーツの折り目がどうなっていようが寝心地に大差はない。
だがそれでも佳世は素直に謝っておく。後輩の足立を呼び、もう1度シーツの貼り直してもらえるようにお願いする。
「上野さん、文句言わないんですか?」
2人でシーツの四隅を持って広げていると、足立が声をひそめて聞いてくる。
「だって、あれ、あきらかにいじめですよ。他の人だったら別にこれくらい何も言われてないですもん。それに、シーツは2人でやってるんだから、2人に言えばいいのに、上野さんだけ」
「一応、私が先輩だから仕方ないよ。ごめんね、何度も手伝わせちゃって」
佳世は曖昧に笑う。足立は手を動かしながら、深いため息を吐いた。
ホテル・ウィズホームでの清掃の仕事はだいたい15時過ぎには終わる。働いているのはたいてい主婦で、年齢は20代から70代と幅広い。みんな仕事が終わっても家の仕事が待っているからそのまま帰るのが普通だが、給料が入ったあとだけは例外で、その日も誰かが駅前に新しくできたカフェに行ってみないかと言い出した。いいねいいね。誰かが便乗し、今日行ける人―? と呼びかける。佳世はロッカールームで着古したTシャツに着替えながら、意識的に息を殺す。
「上野さんも、行きます?」
声をかけてきたのは足立だった。まだ入社から2週間の足立は、職場での佳世の立ち位置をよく分かっていない。
「あー無理無理。カフェなんて上野さんにはぜいたく品だから」
誰かが言う。くすくすと笑い声が遅れて聞こえてくる。着替えを終えた佳世はまた曖昧に笑って、お疲れ様ですと背中を丸めて、笑い声でざわめくロッカールームを後にした。