離婚後、タワマン低層階に引っ越した64歳男性
笹山一仁(64)が東京港区のタワーマンションで一人暮らしをはじめたのは、つい半年ほど前のことだった。
輸入車ディーラーの会社を経営していたが、社長の椅子は後進に譲ってしまっていた。昨年、妻との間で離婚が成立したことをきっかけに、これからは悠々自適の日々を送ろうと思った。
もともと世田谷区に一軒家を構えていたが、一人身になると管理・維持の負担も大変だった。30歳になる長女は大手メーカーに勤務しており、海外赴任中で頼りにならない。そこで不動産を処分して老後資金を作り、何かと便利な都心部駅近のタワマンに引っ越したというわけだった。
タワーマンションといっても買ったわけではなく、低層階の1LDKに賃貸契約で入居したに過ぎない。家賃を払い続けるのは少し心配もあったが、いまも個人事業主として仕事を続けており、賃貸のほうが節税になることも一仁を後押しした。
ただずっと世田谷区に住んでいた一仁は、都心の港区に友人がおらず、都会の真ん中で一人、孤独に暮らしていた。そんな笹山一仁の家に、ある日、同じタワーマンションの住人が遊びに訪れたのだった……。
「素敵なお部屋ですね!」
「お邪魔します。わ、素敵なお部屋ですね!」
笹山一仁の部屋を訪れた、香山蒼汰(38)が、かたわらの香山舞衣(32)に言った。
「ほんと、素敵ですね!」舞衣は満面の笑みを浮かべている。
その様子を見ていた一仁は内心苦笑していた。
――素敵もなにも、同じタワーマンションの部屋なんだけどなあ……。
60を過ぎての一人暮らしで、家具を買い揃えるのも億劫、とにかく生活に必要な最低限の家電だけ置いただけの殺風景な部屋だった。「素敵な部屋」のはずがないことは一仁自身が一番よく分かっている。
二人がお世辞を言っているのは明らかだったが、これも一仁への気づかいだろうし、褒められて悪い気はしなかった。
笹山一仁が、香山蒼汰と舞衣の夫婦と知り合いになったのは、つい2週間ほど前のことだった。
あまり気が進まないながらも、少しでも友人・知人を作ろうと、タワーマンションの自治会主催の清掃活動に参加した時に、香山夫妻と知りあったのだった。
夫の香山蒼汰は外資系コンサル会社に勤務しているという話だった。妻の舞衣は料理研究家として書籍も出版しているという、絵に描いたようなパワーカップルだった。
――30代で港区タワマン暮らしとは、うらやましいなあ……。
香山夫妻は上層階の角部屋を所有しているという。一方の一仁は低層階に賃貸で住んでいる。同じタワーマンション暮らしではあるが、資産という意味ではその差は歴然としていた。
――まあ、こちらは仕事を引退した身だし、しかたないが……。
悠々自適の暮らしを楽しんでいる一仁はあまり気にしていなかったが、香山夫妻のほうはそうでもなかったことが、すぐ明らかになったのだった。
