<前編のあらすじ>
和栄は6年ほど前から母・伊代と共に暮らしている。同居の理由は伊代の足腰が悪くなったことだった。だが伊代は徐々に自活がままならない状態となってしまう。現在はホームヘルパーの力を借りながら、和栄が生活の世話をしている状態だ。
和栄はできうる限りの努力はしているものの伊代の状態は悪くなっていくばかりである。そんな生活の中で和栄には特に気がかりなことがある。
元気だったころ、伊代は料理好きだった。2年前には認知症と診断され、記憶があいまいになるなかでも、好きだった料理は忘れられないのか、伊代は今でも台所に立とうとする。もちろん、自活すらままならない伊代に料理ができようはずもない。
台所に立っては、包丁で指を深々と切ったり、火を消し忘れたのかボヤ騒ぎを起こしたりとひと騒動を起こしている。
いずれもヘルパーや夫の存在により大惨事につながることはなかったのだが、包丁は目につかないところにしまい、ガス栓は必ず閉めてから眠る生活が当たり前になってしまった。
それでもなお、伊代は台所に立とうとしてしまい……。
前編:「いやよ。私がつくるから」介護にあたる娘を悩ませる、認知症の母が忘れられない“好きだったこと”
ごはんはまだ?
2年前には母は認知症と診断されてしまった。
その日の夜は、何度も母に起こされた。「トイレがどこにもない」「ごはんはまだ?」と不安げな声が聞こえるたびに、和栄は布団から這い出した。時計の針が午前3時を回ったころには、もう体の芯まで重くなっていた。それでも、朝になれば、家族のために動き出さなければならない。
「和栄、顔色悪いぞ。今日は俺、休もうか?」
「ううん、大丈夫。昨日も息抜きしてきたんだし」
そう言って夫の申し出を断り、会社に送り出すと、和栄はぼんやりとした頭で、なんとか身体を動かした。疲労が滲み出る手元に気づかないふりをして。
昼過ぎになると、母はテレビの前で静かにまどろんでいた。和栄はようやく、リビングのソファに腰を下ろした。
少しだけ……と思ったのが、間違いだった。一度閉じてしまったまぶたは思ったよりもずっと重く、気がついたときには、部屋はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
「……お母さん?」
リビングには、母の姿がなかった。和栄は血の気が引くのを感じた。夢中で家中を探し回ったが、トイレにも、庭にも、物置にも母はいない。
「まさか……!」
急いで外に飛び出した。すると、ちょうど仕事から帰宅した夫に鉢合わせた。
「どうした、和栄?」
「お母さんが……いないの!」
間もなく帰宅した息子も加わり、それぞれ手分けして、近所を探し始めた。
和栄は何度も、母を呼びながら、住宅街を駆け回った。だが、どこにも、あの小さな後ろ姿は見当たらない。
「お義母さん、どこに行きそう?」
夫に聞かれ、和栄は言葉に詰まった。
母は、どこへ行きたいと思うのだろう。
和栄は何も、思い浮かばなかった。
冷たい風が吹き抜ける。今まで、効率的に、最善を尽くしてきたつもりだった。介護の計画を立て、スケジュール通りに家事をこなし、事故が起きないように、万全を期してきた。それなのに一番大事なことが、すっぽりと抜け落ちていた。
母が何を想い、何を望んでいるか。
和栄は、そんなこと、少しも考えてこなかった。
街灯の灯りがぼんやりとにじむ。
心の中で、何度も何度も祈りながら、和栄はただ、必死に走り続けた。