スマホを耳に当てながら話を聞いていた菜々子は「はぁ」と隠しもせずにため息まじりの相槌を打った。

「帯コメントですか。何で私なんかに……?」

『受賞者の太田さんの希望なんです。長谷さんの「私の中の夜」が小説を書き始めたきっかけだそうで、長谷さんからコメントいただけたら、太田さんも喜ぶと思うんです』

「はぁ」

菜々子はもう一度ため息をついたが、結局担当編集の佐藤に押し切られて帯コメントの仕事を了承した。「それじゃあ受賞作のプルーフ、明日着で自宅に送ります」と言って佐藤が電話を切ったあともしばらく、菜々子はその場に立ち尽くしていた。春の弱々しい日差しが差し込むリビングはだだっ広くて、ひどく寒い。壁に沿うように置かれた棚の上には、埃をかぶったトロフィーといっしょに夫の写真が飾ってある。

菜々子が事務として働いていた小さな会社が倒産したのは10年前だった。20年以上働いていたとはいえ、会社にも仕事にも思い入れはなかったし、夫が稼ぐ十分な収入があったから、菜々子は唐突にできた人生の余暇を漫然と過ごしていた。

しかし人間というのは勝手なもので、働いているときはあれほど時間が足りないと思っていたはずなのに、いざ時間を手に入れてみると趣味の読書くらいしかやることがなく、すぐに時間を持て余すようになった。

だから菜々子は、気まぐれで小説でも書くことにした。

1年と1ヶ月かけて書いた小説を、せっかくだから誰かに読んでもらおうと出版社が主催する新人賞に送った。さらに半年後、見知らぬ番号からの電話がかかってきて、新人賞の最終候補に残った旨を伝えられた。そして菜々子自身、何が起きているのかよく分からないままに新人賞を受賞し、小説家としてデビューした。それが『私の中の夜』だった。

夫は喜んでくれた。受賞で賞金がもらえたことや書店に菜々子の名前が載った本が並んだこともそうだったが、「君は小説を書き始めてから、毎日楽しそうだ」と笑ってくれた。それもそのはずで、菜々子が書く小説はいつも、夫が菜々子にかけてくれた言葉や、2人で行った思い出の場所や出来事を下敷きにしていた。幸せな記憶を思い浮かべることと小説を書くことがほぼイコールで結ばれるのだから、楽しくないはずがなかった。