<前編のあらすじ>

勤めていた会社の倒産により時間ができたことから、菜々子は小説の執筆を始める。軽い気持ちで筆を執った菜々子だったが、せっかくなら、誰かに読んでもらいたいと完成した作品を新人賞に応募したところ、とんとん拍子でデビューがきまってしまう。

3作目である『紅く燃える海を渡って』はSNSのバズも味方となり大ヒット。一躍人気作家の仲間入りを果たす、かに思えた……。

しかし、悲劇が起こる。夫が脳梗塞に倒れ、帰らぬ人となってしまったのである。これを契機に人気作家の階段を上るまさにその途上だったはずの菜々子は小説が書けなくなってしまったのである。

そして4年がたったある日、受賞作家が菜々子の作品の大ファンだったことから呼ばれた新人賞の受賞式典で菜々子は作家仲間の志津火と再会を果たす。

孤独な日々を過ごす菜々子の姿を心配した志津火が菜々子にすすめたのは、リタイアした盲導犬を引き取るボランティアだった。

前編:夫が亡くなり書けなくなった“ひとりぼっちな小説家”が作家仲間から勧められた「新しい生きがい」は?

リタイアした盲導犬との暮らし

フードボウルにドッグフードを流し込み、おすわりをしながらリビングで静かに待っている黒い毛並みのラブラドールレトリバー――リューのもとへ運ぶ。しかし、きれいに揃えられた前足のすぐ前にフードボウルを置いてみても、リューはすぐに食事を始めない。盲導犬時代の癖が抜けないのか、食べていいと、菜々子が合図をするまでじっと待っている。

「リュー、よし。食べて」

菜々子の合図でリューは食事を始める。お腹が空いていたのかいい食べっぷりだった。だがそんなにお腹が空いていたにも関わらず、合図がなければ食事を始めない律儀さに菜々子の胸は少し苦しくなる。

リタイア犬の引き取りボランティアについて調べた菜々子は、自分でもよく分からない衝動に突き動かされるように地元の盲導犬協会が主催する見学会と説明会に参加し、引き取り家庭の申し込みを行い、リタイア犬の譲渡待機者となった。もちろん譲渡先を探しているリタイア犬は常にいるわけではない。

待機者の家庭に合うだろうとマッチングされたリタイア犬が現れるまで、待機者はただひたすら待つことになる。菜々子の場合は幸いで、申し込んでからひと月ほどでリタイア犬の候補が現れた。早速リューに会いに行った菜々子は、一時預かりの手続きを終えて、昨日から一緒に暮らし始めていた。

まだひと晩しか過ごしていなかったが、それでも分かったことがある。盲導犬になるための訓練を積み、その役目を立派に勤め上げたリューには盲導犬としての正しい振る舞いがしみついている。行儀がいいのはいいことだ。むやみに吼えたりしないから近所迷惑になるようなこともない。けれどその正しさは、菜々子が想像する犬らしさとはかけ離れているように思えてしまった。

「もう頑張らなくてもいいんだよ。のんびり過ごしてね」

菜々子は食事をしているリューの頭を撫でる。リューは気持ちよさそうにしているが、食事を終えると立ち上がり、後ろ足を引きずるように歩きながら菜々子のもとを離れ、玄関が見えるリビングの入り口に座り込む。

きっとリューは以前のパートナーのことを恋しく思っているのだろう。くつろいでいるように見えて周囲の様子や物音に抜かりのない注意を払っているリューは、いつかあの玄関扉が開いて以前のパートナーが迎えにきてくれることを辛抱強く待っているように見えた。

だがリューがいくら待っても以前のパートナーが迎えにくることはない。

「もうリューは十分頑張ったんだよ。だからこれからは、自分のためだけに生きていいんだよ」

菜々子が声をかけると、リューが小さく喉を鳴らす。伝わっているのかは分からない。