事故により引退を余儀なくされ
1頭あたりおよそ500万円もの育成費をかけて訓練される盲導犬がある種のエリート犬であることを、菜々子はリューを一時預かりする過程で知った。
1歳になると訓練が始まり、まずは適正を検査される。適性がないと判断されればその時点で盲導犬としてのキャリアは終了し、キャリアチェンジ犬としてボランティア家庭に引き取られる。適性がある犬はその後1年間、さまざまな訓練を積み、ハーネスをつけ、目の不自由な人の目となり安全を守る任に就く。もちろん失敗は許されない。万が一大きなミスをして、パートナーの安全が脅かされてしまうようなことがあれば、盲導犬はたいていの場合即引退になる。
そう、リューのように。
不運な事故だったそうだ。
雨で視界が悪いなか、青信号の横断歩道にバイクが突っ込んできた。リューは身を挺してパートナーを守ろうとしたが叶わず、ともに怪我を負った。そのときの後遺症で、リューは今も完治したはずの後ろ脚を引きずるように歩く。
幸い、お互いに命にこそ別状はなかったが、1度パートナーを危険にさらしてしまった挙句、自身も今までのように歩けなくなったリューに盲導犬としての役目を継続することは難しかった。リューはハーネスを外すことになり、事故で入院しているパートナーのもとからリタイア犬ボランティアに登録した菜々子の家へやってきた。
まだ、うまく状況がのみ込めていないのかもしれないと思う。リューからすれば訳が分からないままパートナーから引き離されている気分なのだろう。きっと自分が盲導犬を引退していることも納得がいっていないに違いない。
菜々子は不安だった。リューは自分が全うした役目から解放され、安らかな時間を過ごすことができているのだろうか。あと数日もすれば一時預かりの期間は終わるのに、リューとの距離が縮まっている気がしなかった。
それでも菜々子は熱心に、リューに寄り添った。室内で使えるボールや骨の玩具を買ってきては遊びに誘った。なるべく一緒にいる時間を増やそうと、夜寝るときはリューをベッドに呼んで添い寝し、夫との思い出や小説を書いてきた自分の話を語って聞かせた。
ある日、レースカーテン越しに差し込む陽光にあたりながら、いつものように夫との思い出を語り聞かせていると、リューがすくりと立ち上がり、菜々子から離れていった。毎日毎日聞かされていい加減飽きてしまったのだろうかと思っていると、リューが戻ってくる。その口にはリューのために買ったシリコンボールが咥えられている。
「どうしたの? 遊びたいの?」
菜々子は驚いた。これまで菜々子が誘えば遊んではくれたものの、リューが自発的に玩具を持ってきたことはなかったからだ。
菜々子が差し出した手にリューがボールを渡す。しかしリューは遊ぼうとはせず、菜々子に寄り添い、自分の額を菜々子の頬に寄せた。
そこでようやく、菜々子は自分が涙を流していたことに気づく。いい年して思い出語りで泣くなんて、と菜々子は自嘲するような笑みを浮かべる。その瞬間だった。
うぉん。
リューが優しく吼えた。喉を鳴らし、菜々子の頬に自分の額を擦りつけた。
くぅん……うぉん。
泣かないで、と言われているような気がした。
けれど菜々子の涙は止まらなかった。どことなく不器用な優しさが、けれど確かな温かさを持った思いやりが、夫の姿と重なった。
「……もう、泣かせないでよ」
うぉん。
菜々子はリューを抱きしめた。春の光のなかで、1人と1匹の体温がそっとひとつに溶け合った。