手術を受けてみようと思う
「なあ、麻美。やっぱりさ、手術受けてみようと思う」
拓海が言うと、麻美はいつもにこやかな頬をわずかに緊張させた。麻美が何を言おうとしているのかは拓海にも分かったが、麻美は拓海の置かれた現状をよく分かっているからこそ、すぐには口を開かなかった。
「このままじゃいつまで経っても店を開けらんねえ。手術して治るんだったら、それしかないと思うんだ」
拓海は言い聞かせるように拳を握ったが、麻美は首を横に振った。
「お医者さんも言ってたでしょ。無理に手術する必要はないって。それにリスクもあるって。そんなイチかバチかの手術なんていや。万が一のことがあったらどうするの?」
「じゃあどうしろって言うんだよ。このままじゃ店は開けらんねえ。今更別の仕事なんてできるわけもねえし、野垂れ死ぬだけじゃねえか」
「あなたが調理できないっていうなら、私が代わりに厨房に立つわよ。あなたみたいに上手くいくかは分からないけど――」
「素人の下手マネでやってけるような店じゃねえんだ! 何寝ぼけたこと言ってんだよ」
思わず怒鳴りつけていた。不安になって視線を滑らせれば、麻美は驚いた様子で、あるいは怯えた顔で、黙り込んでいた。すまん、と謝るべきなのに、拓海もまた言葉を吐き出すことができなかった。
麻美に何の非もないことは分かっている。強いて言うなら運は悪かったのかもしれないが、もちろん医者が悪いわけでもない。悪いのはきっと、これまで努力し、築き上げてきたものにすがり、プライドを捨てられない自分自身だった。
「……一人にしてくれ」
ようやく吐き出せた言葉は、これまで口にしたどんな言葉よりも弱々しく広がり、半世紀以上続いてきた店の壁に、机や椅子に、拓海の声は響くことなく吸い込まれていった。
●拓海はなんとか昔の味を取り戻すべく、厨房に立ち続けるのだが、 変わってしまった感覚が元に戻ることはなかった。やるせない思いを抱え、拓海は逃げ込むようにしてパチンコ店に駆け込むのだが……後編:【脳腫瘍で嗅覚を失った料理人が涙した、妻との思い出のつまった「最高の料理」は?】にて詳報する