鍋のなかのハヤシライスのルーをかき混ぜる。ほんのりと赤みを帯びた深い茶色のルーのなかで、とろみを帯びた玉ねぎや食べ応えがあるサイズに切った細切れの牛肉が泳いでいる。拓海はおたまですくい上げ、顔を近づけた。

本来ならば濃厚なルーのなかにトマトの甘みと酸味が感じられるはずだが、どれだけ鼻を近づけても、ルーを口に含んでみても、拓海の味覚はその繊細な味わいを捉えなかった。

「ダメだ」

独りでに呟いていた。おたまを鍋のなかに沈めて火を消した。頭に巻いていたバンダナを外し、腰のエプロンを剥ぎとり、厨房から出てカウンター席に腰を下ろす。
拓海は締め切られた店の扉を見る。いつまでも店を開けないわけにはいかない。二階の住居と合わせて持ち家なので家賃はないが、こうしてリハビリがてらの試作を繰り返しているだけでかかる水道光熱費や材料費は、2、30万はくだらず、容赦なく店の経営と家計を圧迫する。

そもそもただ生きているだけで拓海と妻の麻美が2人で暮らすための生活費だってかかるのだから、店を閉めていればそう遠くないうちに生活は立ち行かなくなるだろう。だが納得のできない味のままで店を開けることは、父から受け継いだ洋食屋を三十年以上切り盛りしてきた拓海のプライドが許さなかった。

体調は問題ない。むしろ二週間しっかり休んだ分、入院する前よりも遥かに元気になっている自覚はある。だが、拓海の身体はすっかり変わってしまっていた。