<前編のあらすじ>
洋食店「オカジマ」の店主・拓海は店の存続に関わる不調に悩まされていた。嗅覚がうまく働かず味がわからなくなってしまったのである。
原因は脳腫瘍だった。
良性で命にかかわるものではない。だが、嗅覚を取り戻すためには腫瘍を取り除く手術を受ける必要があった。もちろん、手術はノーリスクというわけではなかった。
妻の麻美はイチかバチかの手術を受けるくらいなら代わりに自分が厨房に立つと言うのだが、拓海は思わず怒鳴りつけてしまう。半世紀にわたり腕を振るってきたプライドが妻の申し出を許せなかったのだ。
妻が悪くないことは頭では分かっている。でも、一体どうすればよいのか。拓海は一人煩悶とする。
前編:「匂いがわからねぇ」街の洋食店を窮地に陥れた、店主を襲った「謎の不調」の正体…
限界だ
パチンコ屋の喧噪とランチ時の店の賑わいは似ても似つかない。だが無作為に行き交う音のなかに身を置いていると安心感があった。幻想だと分かっていても安心感を抱かずにはいられなかった。
麻美を怒鳴りつけたあの日から3日が経っていた。その間、拓海は相も変わらず厨房に立ち、何度も調理を試みていた。だが狂っているのは料理の腕ではなく拓海自身の感覚のほうなのだから、何度やっても結果は同じで満足のいく味に仕上がっているとは思えなかった。
もう限界だった。所詮、自分が磨いてきたつもりだった料理の腕なんてものはたかが知れていたのだろう。聴覚を失っても曲を作り続けたらしいベートーヴェンのようにはいかないのだ。拓海は厨房を片付け、諦めに似た感情を引きずりながら普段は全くやらない駅前のパチンコ屋に逃げ込んだ。
自棄になって辿り着いたのがパチンコ屋なんて、50歳を過ぎて中坊みたいなことをしている自覚はあったが、他にこのやるせなさを濁す方法が思いつかなかった。適当な空き台の前に座り、サンドに5,000円札を入れ、手当たり次第にハンドルを回した。左手側にある残金の表示はボタンを押すごとにあっという間に出玉に変わって減っていった。
やがて2万5,000円を使い切ったところで、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。拓海は残った出玉を缶コーヒーと引き換え、店を出てすぐにプルタブを引いた。飲んだ缶コーヒーはそれらしい香りすら感じられず、まるで粘つく砂糖水でも飲まされているようだった。自販機横のゴミ箱に、まだ半分くらい残ってい中身ごと缶を捨てた。
そのまま真っ直ぐ家に戻る気にもなれず、ふらふらと夕暮れの街を徘徊してはみたが、ばったり常連客の田野井と出くわしてしまった。