1人の人間としての決断
どうすればいいのか分からなかった。父親として――いいや、佳則は父親ではなかったのだ。1人の人間として、どう決断するのが正しいのだろうか。大きすぎる現実は、佳則の思考をすりつぶしていた。
……もう無理かもしれない。奈々子と別れる。そんな選択肢が、にわかに脳裏に浮かんだ。
「――だぁうぁ」
いつの間にか起きていた美波の声がして、思わず佳則はそちらに目を向けた。
「えっ⁉」
佳則は大声を出した。
リビングで寝ていたはずの美波が立ち上がり、こちらに向かって歩き出したのだ。
1週間くらい前にようやくつかまり立ちをし始めたばかりだったはずなのに、もう美波は自力で歩いていた。しかしその足取りはおぼつかなく、目の前にあるおもちゃに引っかかって転びそうになった。
「あぶな――っ」
思わず、佳則は飛びついて、美波を持ち上げた。間一髪のところでおもちゃとの衝突を免れた美波は、焦っている佳則が面白かったのか、腕のなかで楽しそうに笑っている。
「危なかった……」
声がしたほうを見ると、奈々子も同じように飛びつき、おもちゃをどかしていた。
こちらを見上げた奈々子と目が合って、佳則は思わず笑ってしまった。
2人とも、きっと同じ気持ちだった。
腕のなかでは相変わらず、美波が屈託のない、とてもかわいい笑顔を浮かべている。たぶんこの笑顔よりも大切なものなんて、この世にひとつだってないのだろう。血のつながりなんてものは、この尊さの前ではどうでもいいことのように思えた。
「美波、歩いたよ」
「……うん、歩いた」
「……さすが、……俺の子だ」
佳則はうなずいて、美波を抱える腕を天井へ伸ばす。
そう、この子は俺の子だ。俺は、この子の父親だ。
隣りでは奈々子が泣いていた。何度も繰り返される「ごめんなさい」が「ありがとう」に変わっていった。佳則はこの世界で最もいとおしい娘と妻を優しく抱きしめた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。