「推し」って?
しかしライブが進むにつれて、オレンジ色の髪をした1人の男の子に目がとまる。
その男の子は大抵の曲でステージの端にいた。そこが定位置なのか、フォーメーションの入れ替えでセンター付近にくることはあっても、すぐに端へと戻っていく。けれど、人一倍ダイナミックなパフォーマンスでステージ上から訴える。
俺を見てくれ。
百合子は彼がそう叫んでいるような気がした。
気がつけば、大勢の観客たちを相手に晴れやかな顔でパフォーマンスをするオレンジ髪の男の子から、百合子は目が離せなくなっていた。
あっという間に2時間半のライブDVDが終わり、夏織は興奮した様子で、百合子を見る。
「ど、どうだった?」
百合子は思わず目を背ける。
「すごいね。特に、あの、オレンジ髪の子、すごくすてきだった」
「ホクト? え、おばちゃん、ホクトが推しなんだ」
「……推し?」
「んー、なんていうか、応援してるってことかな」
応援と聞き、ふに落ちた。
百合子はステージの端でも全身全霊のパフォーマンスを続けるホクトのことを、応援したいと思っていた。
「そんなにホクトが好きなら、オーディションのときから見た方がいいよ。サブスクで過去のやつ全部見られるから」
そう言われて、百合子はその日1日すべてを費やして、過去のオーディション番組を見ていった。もちろん百合子の横で夏織は分かりやすく解説をしてくれた。
印象的だったのは、最終選考に残った15人の候補生たちのなかで、ホクトは別にダンスも歌もうまいほうではなかったことだ。
合宿で講師の人に手ひどく怒られ、目に涙をためる。みんながレッスンを終えたあとも、たった1人で自分ができていなかった箇所、怒られていた箇所を何度も何度も練習し続ける。できない自分にいら立って思わず声を荒げるシーンがあった。自分のふがいなさに、1人涙を流すシーンがあった。
やがてホクトは積み上げた努力が実を結ぶように、目に見えてパフォーマンスの力をつけていく。
「ホクトはね、最初、ファンのあいだでは”何で最終に選ばれたのか謎”って言われてたんだよ。歌もいまいちだし、ダンスだって下手だったし」
アイドルの世界はシビアだ。SNSがあるおかげで人気や批判はごく簡単に可視化できる。そういう人気は楽曲の立ち位置やソロパートの多さに反映される。一緒に汗を流すメンバーは仲間でありながらライバルなのだ。
ホクトは最終オーディションの結果を受けて、初めて人前で涙を流す。当然だ。それはうれしいだろうと百合子も思った。あれだけ努力してつかみ取ったデビューなのだから。
しかしホクトはマイクを受け取ると、こういった。
『最終の合宿、すごく楽しくて。悔しいこともあったけど。でもこうやって結果が出て、僕が合格したことで、落ちた人がいる。そのことをずっと忘れずに、これからの活動を頑張りたいです』
きっとホクトは人の痛みが分かる人なのだろう。誰よりも努力していたホクトは、自分の努力だけではなく、最終合宿に臨んだ15人の候補生全員が努力していたことをちゃんと知っている。
百合子はホクトの、そして彼が愛するバニーズというアイドルグループのとりこになっていた。
夏織に教えてもらいながら、CDやグッズを買った。通勤中はバニーズの楽曲を聞き、家に帰ってからは夏織と一緒にライブDVDや出演バラエティーを見て騒いだ。
あれほどやることがなかった空虚な時間も、夏織との生活を面倒に思う気持ちも、もう跡形もなかった。夏休みが終わりに差し掛かり、夏織が家に帰る日には、お互いに抱き合って少しだけ泣いた。
しかし夏織が帰ってからも、夏織との連絡は続いた。もちろん話題はバニーズ一色だった。
●百合子の退屈な日常は変化した。幸せな日々は続いていくのだろうか。後編【怠惰な生活を送るアラフィフおひとりさま女性に活力を与えた「推しと同じくらい大切な存在」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。