高橋智美はスーツケースを下ろして、腰に手を当てた。まだまだ元気だと思っていたけれど今年で44歳になる体はしっかりと老いをため込んでいるらしい。

「疲れたでしょう。降りてきて少し休憩でもしたらどう?」

「大丈夫。ちょっと荷物整理したらにする」

階段のところから呼びかけてくる母に返事をする。母が少しよそよそしい調子なのは、たぶん智美の傷心を気遣っているからだろう。

結婚生活の終わり

智美は先月、23年の結婚生活に終止符を打った。原因は夫の浮気。もともと潔癖なところがある智美は謝ってくる夫の謝罪なんて受け入れることができなかった。汚らわしい。声を聴くのだってうんざりだった智美は2人のあいだに子どもがいなかったことも幸いし、早々に離婚届を突きつけて実家に戻ってきた。

名残惜しいと言えば、導線の使い勝手やデザインにこだわって作ったキッチンだ。夫はほとんど料理ができない人だから、きっとあのキッチンは埃(ほこり)をかぶってさびつき、コンビニ弁当の空容器をため込む場所になるのだろう。そう思うとほんの少し後ろ髪を引かれるような思いもあった。

「よし」

深く息を吐きだし、年末年始にしか帰ってこなかったのに掃除の行き届いている自室を見渡す。勉強机や本棚は昔のまま。智美が帰ってくる今日に合わせて母が洗って用意してくれたベッドからはまだ少し太陽のにおいがする。

またここから始めるのだ。智美はスーツケースを開ける。

突然の“出逢い”

海斗と運命的な出会いをしたのは、徐々に実家での生活にも慣れ始めたころだった。

智美は深夜の居間でひとり、履歴書を書いていた。もう何枚目か分からない。もはや目をつむっていたって学歴欄を埋められるような気さえする。

短大を卒業してほどなく結婚し、ずっと専業主婦だった智美には働いた経験というものがほとんどなかったこともあって、就職活動は難航していた。加えてもともと社交的でもない智美は、面接では言いたいことの半分も話すことができなかった。

「はぁ……」

ため息をこぼし、髪をかきむしる。志望動機なんてお金を稼がないといけないとか、生活のためとかじゃダメなんだろうか。どうせみんなそうじゃないんだろうか。上手にうそをつける人間が選ばれるなんておかしいと、みんなは思わないのだろうか。

手元にはスマホを置き、イヤホンを通してYouTubeを聞き流す。学生時代の懐かしいバンドのMVが流れていたはずが、志望動機をあぁでもないこうでもないと書き直しているあいだに全く知らない音楽に切り替わっていた。もとに戻そうとして手を止める。智美はスマホの小さな画面に映る5人組の男の子たちに目を奪われていた。

まるで絵本から飛び出してきた王子様のようだった。それぞれに決められた色があるのか、赤、青、緑、黄、オレンジとカラフルなジャケットには金色の装飾が施され、彼らが舞い踊るたびに楽しげに揺れる。音楽とぴたりと調和したダンスと歌は素人目に見ても完成度が高く、どんな研さんを積めばこんなことができるようになるのか智美には想像ができない。

 ——暗い夜におびえないで。僕が君の朝陽になるから。

 ——手をつないで歩いていこう。I pray for you.

青い衣装を着た男の子がアップで抜かれる。智美に向けて右手を伸ばしてくる。ソロで最後の一節を歌い上げると同時に音楽もフェードアウトし、男の子がほほ笑む。頰にはえくぼが浮かび、ほころんだ唇の隙間から八重歯がのぞいた。

稲妻に打たれたことはないけれど、きっとそれくらいの衝撃だった。

いつの間にか履歴書にボールペンを押し付けていた。インクがにじみ、志望動機欄に穴が開いていた。