「ただいま」
玄関のドアが閉まる音とともに、夫・佑輔の低い声がした。
リビングの時計は午後9時過ぎ。4歳の息子はすでに奥の部屋で眠っている。夕食の食器を片づけていた智子は、ちらっと顔を上げて、佑輔を出迎えた。
「おかえり。遅かったね」
「うん、ちょっと残業になってさ」
ジャケットを椅子にかけ、ネクタイをゆるめる佑輔の顔には、疲労の色と、なぜかそれ以上の緊張が混じっていた。
夫のキャリアアップを素直に喜べない智子
普段なら息子の様子をいの一番に尋ねるのに、今日は沈黙が長い。
「どうしたの?」
智子が促すと、彼は一呼吸おいてから、真っ直ぐこちらを見た。
「……実は今日、本社異動の内示が出た」
予想外の報告に、智子は思わず皿を持ったまま固まった。
「本社に?」
「そう。一応、給料も上がるし、将来的には管理職にっていう話も出てる」
声は抑えているものの、誇らしさが隠せない響きだった。
佑輔が働いているのは、いわゆる生活インフラに関わる企業。この十数年、彼が必死に働き続けてきたことを智子は知っている。家族を守るため、地道に努力を積み重ねてきた姿をずっと見てきた。それが会社に認められたのだから、喜びはひとしおだろう。でも、その勤務地は――。
「……通える距離じゃないよね」
「うん。新幹線で3時間はかかる。だから、引っ越すことになるんだけど……」
頭の中に、ぐるぐると現実的な問題が浮かび上がってくる。
イベント会社で働いている智子には、出張もあれば土日出勤もある。佑輔と協力して、どうにか仕事と子育てを両立してきた。保育園への送り迎え、急な発熱の対応、夜の寝かしつけ。
単身赴任になった場合、智子はその負担を1人で抱えることになる。だが、それは到底無理な話だ。
「智子……一緒に来てくれる?」
そう問いかける彼の表情は真剣で、どこか期待するような色が浮かんでいる。
でも、すぐに答えられるわけがない。