夫の希望は妻が仕事を辞めて家族帯同

ふと息子の寝顔が頭に浮かぶ。彼の大好きな友達や先生がいる保育園を離れるのか。そして何より自分の仕事を諦めるのか。

「ちょ、ちょっと待って。急すぎるよ」

「わかってる。でも、前向きに考えてほしい」

「内示ってことは、まだ正式決定じゃないんだよね?」

「そうだけど……これを受けなかったら、俺のキャリアは大きく出遅れることになる」

佑輔の言葉に反論できなかった。

普通に考えれば、夫の栄転を喜ぶべきだろう。彼がどれだけこの日を待っていたか、智子は知っている。だが、智子にとっての仕事も、息子の生活も、同じくらい大切なのだ。

「給料が上がるって言ってもさ……」

思わず否定的な言葉を口にしてしまう。

「お金だけで全部解決できるわけじゃないでしょ。そもそも私は、今の仕事辞めたくないし。仮にあなたについていくとしても、保育園のことだって考えないといけないし……」

気がつくと声が少し強くなっていた。

佑輔は黙ってうつむき、テーブルの上のコースターを指でなぞっていた。

「智子……俺だって、悩んでる。でも、これは家族のためになるはずなんだ」

その「家族のため」という言葉に、智子は胸がちくりとした。家族のため、というのなら、妻の仕事や息子の日常を無視してもいいのだろうか。

リビングの時計の針が、やけに大きな音を立てて進んでいく。

智子は濡れた手を拭いて、動揺を隠すように冷めたお茶を一気に口に運んだ。気まずい雰囲気が流れる。しばらくすると、佑輔が再び口を開いた。

「智子……やっぱり俺は家族で引っ越すべきだと思う」

真剣な眼差しで切り出す夫に、智子は深いため息をついた。

「……話を受けるのは確定なんだね」

「当然だよ。出世コースに乗れるチャンスなんて、そうそうない。給料も上がるし、家族の将来を考えたら、断るなんて考えられないよ」

口調は冷静だったが、どこかで自分が正しいという自信がにじんでいる。

「そうかもしれないけど、今の状況じゃ単身赴任も厳しいでしょう?」

「智子……」

「もっと現実を見てよ。私だって毎日フルタイムで働いていて、土日も仕事がある。今だって調整しながら何とかやってるのに、育児を私1人で背負うなんて、無理だよ」

自分の声が少し震えているのがわかった。