声の主は

望美は声の正体を見つけようと視線を巡らせた。

間もなく、庭の植栽に風がたてる葉擦れの音とは違う音がたち、根元の近くから丸い目をした三毛猫が姿を現した。

「まあ、おかえりなさい。ほら、こっちよ」

母が身を乗り出し手をたたく。三毛猫はもう一度小さく鳴いて、母のもとへと進んでいく。母の足元にからだをこすりつけている様子を見るに、今日たまたまやってきたというわけではないのだろう。

「ほら、ヤマト。お腹空いてるかい?」

母は穏やかな声で言って、上着のポケットからジップロックに入った煮干しを取り出す。望美はその光景を眺めながら呆然とする。“ヤマト”というのは、望美がまだ小さい頃、一緒に暮らしていた三毛猫の名前だった。

ついこの前の母の表情が脳裏を過ぎった。勝手口横の棚から落ちてきたプラスチックのお皿を捨てた望美のことを、母は寂しそうに眺めていた。あのとき捨てたのは、ヤマトが使っていたお気に入りのお皿だった。

「今日は元気がいいねぇ。たくさんあるからね」

母の足元で、“ヤマト”は煮干しを食べている。幸せそうにその様子を見下ろしていた母は、ふと顔を上げ、望美に声をかけてくる。

「望美もおいで。懐かしいでしょう。ヤマトはお利口さんだからね、ちゃあんと帰ってきてくれたのよ」

その猫は“ヤマト”じゃないよ、とは言わなかった。望美は立ち上がり、“ヤマト”のそばにしゃがみ込む。

人に慣れているのか、望美が近寄っても警戒する様子はなく、煮干しに夢中になっている。望美は“ヤマト”の背中をそっと撫でる。冷たい空気に悴んでいた手が、母への困惑と嫌悪で固まっていた心が、ほどけていくのを感じた。

「あったかいでしょう」

母の言葉に望美はうなずいた。

「望美、最近疲れてるみたいだったから。ほら、小さいころ、いつも男の子たちと喧嘩して帰ってきても、ヤマトが甘えてくると元気になってたでしょう」

「いつの話してんのよ、もう」

返す言葉といっしょになって涙があふれ、それ以上はかたちにならなかった。みぃ、と三毛猫が心地よさそうに鳴く声が、望美と母を静かに包み込んでいた。

煮干しを4本食べて満足した“ヤマト”は出てきた植栽の隙間から再びどこかへ去っていった。きっとどこかの飼い猫なのだろう。母はヤマトだと信じてやまないが、あの三毛猫は残念ながらヤマトではない。

“ヤマト”が去ったあと、母は自分からすんなりと立ち上がって部屋へ戻ってくれた。

「知ってる? 三毛猫ってだいたいはメスなんだって。大人になってから知ったんだよね。あの子にはかわいそうなことしちゃった」

「いいじゃないの、女の子だって可愛い名前よ」

「てきとうなんだから」

勝手口から部屋のなかへ戻る。望美は居間の座椅子に腰を下ろす母を支えながら、ここしばらく切り出せずにいた老人ホームの話題を口にする。

「お母さん、老人ホームのことだけどさ、ひとまずデイサービスの時間、増やそうと思うんだけどどうかな」

「いいんじゃないの。望美が辛くない方法でやってくれていいんだよ」

「そうなの?」

「そうよ。当たり前じゃない。いつもいつも迷惑ばっかりでごめんね」

「ううん。迷惑なんて、全然」

母が待っていたのは、望美の笑顔なのかもしれない。そう思うのは少し考えすぎで、くさいかもしれないが、望美が母を思うように、母もまた望美を大事に思ってくれていたことは、きっと揺るぎのない事実なのだろう。

望美はすっかり冷えてしまった母に身を寄せながら、そんなことを思った。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。