伊代がスマートフォンの振動に気づいたのは、午後の仕事がようやく一段落したころだった。画面に浮かんだ「実家」の文字を見た瞬間、かすかに胸がざわつく。母の清子は、何か用事があっても大抵夜に電話をしてくる。こんな時間にかけてくるのは珍しかった。
「もしもし、お母さん?」
席を立って応答した途端、受話口の向こうで息を詰めたような気配がした。
日常を一変させた一本の電話
「伊代……今、話せる?」
「どうしたの。何かあった?」
「お父さんがね、がんになっちゃった」
「え?」
「ここ何日か食欲がなかったんだけどね……お医者さんに行ったら末期がんだって言われたみたいで……もう長くないかもしれなくて、治すには海外の病院で手術が必要だって」
母が言った言葉が、すぐには頭に入ってこなかった。
全面ガラスに手をつくと、眼下にはやわらかな日差しの中、薄手の上着を着た人たちが行き交っている。ついさっきまでいつも通りだった日常が、急にどこか遠い場所へいってしまったようだ。
「お母さん、落ち着いて。お父さんは今、家にいるの?」
「いるわ。お昼もほとんど食べなくて、今は横になってる」
「……分かった。今から帰る」
「え、でも仕事が」
「いいから。そんな話聞いたら、今日はもう働けない。すぐ上に話すから」
そう言ってから、自分の声が思っていた以上に緊張していることに気づいた。
父の謙治は76歳。年齢を考えれば、いつ何があってもおかしくない。そんなことは分かっていたはずなのに、伊代はどこかで、実家の両親はずっと変わらず暮らしていくものだと思い込んでいた。
「伊代……ごめんね、急に」
「ううん、謝らないで。夕方までには帰れると思うから」
電話を切ると、伊代は数秒、そのまま光が消えたスマホ画面を見つめた。そこには、こわばった自分の顔がぼんやり映っている。
「曽根さん、大丈夫ですか」
パーテーションの向こうから部下に声をかけられ、伊代は振り向いた。
「ごめん。実家で急ぎのことがあって、今日はこれで早退させてもらうわ」
「何かあったんですか」
「うん、父がちょっとね……」
それ以上は、うまく言えなかった。相手の表情が引き締まるのを見て、ようやく現実感が生まれる。
伊代は必要な引き継ぎだけを短く済ませ、鞄に財布と充電器を押し込みながら、何度も同じことを考えた。
もっと早く自分が父の異変に気づけていたら、何か違っていたのではないか。もっと頻繁に夫や息子たちを連れて、里帰りすればよかった。
「お先に失礼します」
オフィスビルを出ると、春先の風はまだ少し冷たかった。
伊代は人の流れに逆らって、足早に駅へと急いだ。今はただ、一刻も早く実家に着きたかった。
