このままじゃ熟年離婚でもするんじゃない?
翌日も相変わらず郁夫が家で暇を持て余していると、突然玄関の鍵が開き、慎也が家に上がり込んできた。慎也は現在、不動産会社で営業の仕事をしている。まだ結婚はしていないが、彼女と同棲をしているらしい。
「あれ、父さん、いたんだ」
慎也はスーツのネクタイを緩めながら、冷蔵庫に向かった。
「ああ」
家庭を顧みずにいた父親なのに、慎也は普通に話をしてくれる。一緒に住んでいたときは将来をしっかり考えているのかと軽薄さを心配していたが、今は慎也の性格に救われている。
「今日もサボりか?」
「違うよ。父さんのお守りに来たんだって」
コップに水を入れて、慎也は隣に座った。
慎也はこんな感じで、外回りの営業中にたまに家に帰ってくる。ただ仕事終わりには来ない。外回りの営業中にいきなり帰ってくることが多い。
「お守りって、子供じゃあるまいし」
慎也はいたずらっ子のような笑い方をする。
「どうせやることなくて退屈してるんだろ? ならまあ、息子の息抜きに付き合ってくれたって罰は当たんないっしょ」
郁夫は慎也を横目で見る。慎也は鼻歌交じりで携帯をイジっていた。
「何よ? こっち見ちゃって」
「いや、別に何でもないよ」
「どう? 母さんとうまくやってる?」
ドキリとした。急に核心を突かれて動揺した。くだらんことを聞くなと突っぱねようとも思ったが、もしかすると誰かに聞いてほしかったのかもしれない。気が付くと、郁夫の口からは諒子とのあいだに抱える悩みがこぼれていた。
「ありゃ、やっぱりそうか~」
聞き終えた慎也は手で目を覆い、天を見上げた。
「……予想してたのか?」
「当たり前でしょ。こっちはずっと2人を見てきたんだから」
郁夫は背中を丸める。
「このままじゃ、ダメだよな?」
「だね。このままじゃ熟年離婚でもするんじゃない?」
離婚、という言葉に郁夫は顔を上げた。
テレビで熟年離婚を特集する番組を見たことがある。まだ50代で、バリバリ仕事をしていたときだから、興味も持ってなかったが、まさか自分がその当事者になろうとしてるとは。
「ど、どうすればいいんだ?」
「そこはさ、自分で考えないと」
慎也は首を横に振って、立ち上がった。自分で考える。今、1番苦手に感じていることだった。
「じゃ、俺は戻るから」
慎也は再びネクタイを締め直して家を出ようとする。しかしリビングのドアの前で立ち止まると、郁夫を振り返った。
「今もさ、母さんがご飯作ったりしてるの?」
「あ、ああ、そうだが……」
「それじゃダメだよ。母さんは仕事もして料理もしてさ、大変じゃん」
そう言い残して慎也は家を出て行ってしまった。
慎也に指摘され、自分がいかに甘えているのかを思い知る。暇だ、退屈だと言っておきながら、諒子のために何かをしようと考えたことがなかった。
郁夫は台所に目を向ける。結婚して以来、郁夫がその場に踏み込んだことはない。――いや、1度だけ、たった1度だけ、諒子のために台所に立ってみたことがある。
結婚して間もない頃、金のなかった郁夫は諒子の誕生日に手作り料理を振る舞った。結果は散々だったが、黒く焦げたハンバーグを諒子は文句を言いながらも平らげてくれた。
「料理、よし、料理だな」
郁夫は諒子の誕生日に手作り料理を振る舞おうと決めた。
●郁夫の決心、そして慣れない手料理はうまくいくのだろうか……?
後編【「病院食? 味が薄すぎるでしょ」定年夫の悲惨な末路…すべてを見透かしていた妻の「意外な行動」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。