夫婦関係は危険ゾーンへ

勢いに任せて一気に不満を吐き出すと、早希の瞳が揺れた。そして次の瞬間、空気がはっきり変わった。

「……よく分かった。あなたが自分だけが我慢してると思ってるってことが」

「は? いや、別にそんなこと言ってないだろ……? 俺はただ、無駄な出費を抑えようって話を……」

「そっか」

それきり早希は口を聞かなかった。さっとキッチンで手を洗ってから、リビングの床に散らばった湊斗の玩具を拾い上げ、スマホを手に寝室へと消えていった。

その夜、隆太はベッドに横たわる妻の背中に向かって、何度も口を開きかけたが、結局言葉が浮かばなかった。

   ◇

隆太が残業を終えて帰宅すると、家の中が妙に静かだった。テレビも電気も点いていない。テーブルの上には、夕食の代わりに1枚のメモが置かれていた。

「しばらく湊斗と実家にいます」

やや丸みのある整った文字。短い文章は、たしかに早希の筆跡だった。

慌てて電話をかけるが、繋がらない。苦し紛れに送ったメッセージも既読にならない。

隆太は、メモを握りしめたまま家中を歩き回った。いつも玩具やベビー用品が散らばっているプレイマットの上は綺麗に片付けられ、ベビーサークルは折り畳まれて壁に立てかけられている。玄関へ向かうと、ベビーカーが消え、収納棚には未開封のベビー用レインカバーがぽつんと置かれていた。雨の日のお散歩用にと、早希が注文していたものだ。

「……忘れて行ったのか」

とぼとぼとリビングに戻った途端、息苦しいほどの沈黙に苛まれた。耐えかねてテレビをつけると、テレビの天気予報がちょうど流れ始めていた。「秋の長雨」を伝えるアナウンサーの声が、静けさの中に響く。木の葉を打つ雨音、アスファルトに弾ける雫。テレビ越しの湿気がじわじわと部屋の中に満ちていく。隆太はただ、ソファーに身を委ねるしかなかった。

●会社でボーナスカットがされる中妻・早希の浪費癖に嫌気がさす隆太。ケンカの翌日、早希が子どもを連れて実家へ帰ってしまった…… 後編【「しばらく実家にいます」妻子に去られた40代男性、孤独な1人暮らしで痛感した"家事丸投げ"の現実】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。