夜勤明けの早朝、英子は玄関の鍵をそっと回した。まだ眠っているであろう娘を起こさぬよう、靴音をできるだけ忍ばせて中へ入る。
24時間体制の病棟勤務は、慣れていてもやはり体に堪える。
疲れ切った足を引きずりながらリビングの電気をつけると、テーブルの上には大量の缶バッジが敷き詰められたトートバッグが置かれていた。缶バッジには、どこか作り物じみたアイドルの顔がプリントされている。所謂「痛バッグ」と呼ばれる代物だ。
「また新しいの作ったのね……」
生きがいを求め推し活に没頭する娘
娘の來未は21歳。
大学3年生で、とあるアイドルの“推し活”に情熱を注いでいる。
彼女の推しは、7人組のグループのメンバーで、今度初武道館ライブがあるとか。髪の毛は推しカラーである淡いラベンダーに染め、ネイルも毎回その色合いに合わせているらしい。
少々派手すぎるようにも思えるが、本人は満足げだ。
冷蔵庫を開けて水を飲んでいると、背後から「おかえり」と声がした。振り返ると、寝間着姿の來未があくびをしながら立っていた。
「ただいま。起きてたの?」
「うん、今日バイト休みだから夜更かししちゃってさ。さっきまでたいちゃんの動画観てた」
ソファにごろんと横になる彼女の指先は、推しの名前のイニシャルが描かれたネイルで輝いていた。英子は一瞬、看護師として爪を短く整えてきた自分の手と見比べてしまう。
まるで違う世界に生きているように思えた。
「來未、そんなにグッズ買ってお金は大丈夫なの?」
ふと英子は口にした。
「えー、大丈夫だよ。バイト代全部じゃないし。これは私の生きがいなんだから」
「生きがい、ね……」
その言葉に英子は苦笑いを浮かべる。生きがいという言葉を、20歳そこそこの娘がこんなにあっさり口にするのが少し滑稽に思えた。