父と酒を酌み交わし

掃除を終えると、あのかびっぽい嫌な空気は消えていた。畳の匂いと、微かに残る古い木の香りが混じり合って、どこか懐かしい気配を漂わせていた。

惟子はキッチンで簡単なつまみを用意すると、テーブルに置いていた手提げ袋から、酒瓶を取り出した。ラベルには「大吟醸」の文字。昔、父が飲んでいた銘柄を思い出して、それよりも少し上等なものを買ってきていた。

「お父さん、一緒に飲もう」

声をかけると、ソファに座っていた父が、目を丸くしてこっちを見る。

「おまえが酒を……?」

「うん、せっかくだからね」

惟子は瓶の蓋を開け、小ぶりなグラスをふたつ、テーブルの上に並べた。

父は不思議そうに首を傾げたまま動かない。惟子はにやりと笑って、壁のカレンダーを指さす。

「今日が何の日か、わからない?」

父の目がカレンダーを追い、そして、はっと息を呑んだ。

「……父の日か」

「そう、正解」

惟子はグラスに酒を注いだ。薄く琥珀がかった液体が音を立てて満たされていく。父は無言のまま、グラスを手に取った。

「乾杯」

惟子はそう言って、父にグラスを差し出した。彼も少し遅れて、静かにそれに応じた。

口に含んだ酒は、想像よりもずっとまろやかで、喉の奥でほのかな甘みを残した。

惟子は少し目を細めながら、それを味わった。

「……こうして飲むのは、初めてだな」

父がぽつりと言った。

「うん、初めてだね」

惟子はうなずき、視線をテレビ台の上へ向けた。

そこには、結婚当初の父と母の写真が立ててある。母が写っている写真のなかで、惟子がいちばん好きな1枚だった。惟子がちらっと見ると、父はグラスを口に運びながら、どこか遠い目をしていた。

「お母さん、びっくりしてるんじゃない? 私たちが2人でお酒を飲むなんて」

「ああ、そうだろうな。俺だって驚いてる」

沈黙が流れた。

だが、それはどこか心地よいものだった。温かい感情が、ゆっくりと惟子たちの間に溶けていく。

唐突に父が口を開いた。

「おまえ、昔も父の日に小遣いでプレゼントくれたっけな。あのときは怒鳴っちまって……悪かったな」

「お父さん、覚えてたの?」

「覚えてるさ。あれから、あのタイピンを見るたびに思い出してた」

「何言ってるの、お父さん怒って受け取ってくれなかったじゃない」

「いや……定年するまで使ってた」

「え、うそ……」

惟子は驚いた。あのタイピンは返品されたか、捨てられたと思い込んでいたのだ。

「本当だ。母さんが取っておいたのをこっそりつけて会社に行ってた」

「そう……だったんだ。全然知らなかった」

照れくさそうな父の顔を見て、惟子は思わず口元が緩んだ。

「来年も美味しいお酒買ってくるから、ちゃんと元気でいてよね」

「……ああ」

父は深くうなずいたあと、写真の中の母を再び見つめた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。