お姉ちゃん、お金貸して

「駅前に新しいカフェ、オープンしたんだって」

「へぇ、いいじゃん。みんな誘ってランチ行こうよ」

「え、スイートポテトのパフェおいしそう」

「いいよね。シーズンだもんねぇ」

給湯室で繰り広げられる同僚たちの会話を耳に挟みながら、美緒は弁当箱を洗っていた。彼女たちが言う“みんな”のなかに、自分が入っていないことはよく知っている。

そもそも自分にははやりのカフェなど似合わない。化粧もおしゃれも最低限。流行には疎く、浮ついた言動は慎み、判を押したような真面目さだけが取りえの生活をずっと続けてきた。おかげで時折「つまらない」と陰口を言われたり、損をすることもあるが、詩織ほどの社交性や要領のよさを持ち合わせない美緒にとっては、その真面目さだけがよりどころでもあった。

昼休みを終え、美緒はまた黙々と仕事を再開する。数値入力や契約周りの書類整理が主な業務になる営業事務の仕事は、美緒の性に合っていた。

特に大きなミスもなく、もちろん大きな成果を上げるわけでもなく、決められた業務を決められた量だけ、決められた時間内に遂行して、美緒はその日の仕事を終える。退勤後に遊びに出るようなことはなく、最寄り駅前のスーパーで安くなった総菜を買って帰路に着く。時刻はまだ19時。これもいつも通り。

マンションのエントランスに入ると、オートロックで閉められたガラス扉の前に、高そうなロングコートを着込んだ女の後ろ姿があった。

「え、詩織?」

美緒は思わず声を上げた。その後ろ姿はコートの裾と巻いた髪をなびかせながら振り向いた。

「あ、お姉ちゃん。やっぱこの時間に帰ってきた」

詩織はそう言って笑う。まるでお前には予定がないことはお見通しだと、笑われたような気持ちになる。

「どうしたの、急に」

「ちょっとお願いがあって。ここ寒いから、部屋入れてよ」

詩織が姉を頼ってくるようなことはこれまで1度だってなかったので、美緒は驚きを通り越して不穏なものさえ感じた。しかしこんなところで立ち話というわけにもいかないので、美緒は鍵を開け、詩織とともに部屋へと向かった。

「取りあえず、コーヒーでいい?」

「あ、別にいらない。カフェインって色素沈着するっていうじゃん? だから控えてんの」

「ああ、そう」美緒は取りあえず水道で水を注ぎ、机の上に置く。「それでお願いって?」

「ああ、うん、ちょっとお金貸してほしくて」

「は? なんで。旦那さん、社長でしょ? 私なんかよりずっとお金あるじゃん」

「それがさ、あんまり資金繰りがよくなくて、テナントの更新とか、新作のサンプル作る工場との契約とかでお金が必要で……」

「……ちなみに、いくら?」

「500万」

美緒は目を見開いた。詩織が口にした金額は想像以上に大きかった。

「そんなの、無理に決まってるでしょ。ただの営業事務だよ? そんなお金、貸せるわけないじゃん」

「分かってる。満額とは言わないからさ。少しでいいの。お願い」

詩織は机に額をこすりつけるような勢いで頭を下げた。美緒はしばらくのあいだためらい、やがて深く息を吐いた。

「分かった。でも500万は無理。100万だけど、貸すから、ちゃんと返してよ?」

「ほんと⁉ ありがとう! まじでめっちゃ助かるっ!」

顔を上げた詩織は目の周りを赤くしていた。会社の経営はそれだけ切羽詰まっているのだろう。だがだとしたら、どうして旦那本人が直接頼みに来ないのかと不思議に思った。

「はい、送ったから。早く帰りな。舞亜ちゃん、家で待ってるんでしょ」

美緒はスマホで開いた口座アプリの送金完了画面を詩織に見せた。

詩織は何度もお礼を言い、「持つべきものは優しい姉だね」なんて調子がいいことを言いながら帰っていった。

カーテンの隙間から窓の外をのぞくと、歩いていく詩織の後ろ姿が見えた。前まではタクシー移動が基本だった詩織が背中を丸めて歩く様子をかわいそうだと心配する一方で、いい気味だと思う自分も少なからず存在していて嫌になる。

美緒はスマホを眺め、詩織のSNSアカウントから旦那のショップの公式アカウントを探した。いい気味だと思ってしまった手前、少しでも買い物をして経営の足しにでもなればと思った。しかしプロフィル欄にあるホームページのリンクを踏むと、404エラー――〈アクセスしようとしたページは見つかりませんでした〉と表示された。

●義弟が経営するショップはすでに閉店していた? 妹が語った「真実」は――。後編「フリマアプリで生活費をしのいで…」家賃70万のタワマンに住み、姉をだまして金をせびるセレブ妹の「当然の末路」】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。