会社から帰った美花は、休む間もなくキッチンに立っていた。鍋を火にかけてひと段落したところで、ダイニングテーブルで黙々と宿題のドリルをやっている小学4年生の娘に視線を向ける。
「ねぇ、葵……? 今日って学校で何かあった……?」
「え? 何かって何?」
美花が声をかけると、葵は顔を上げ、きょとんとした表情でこちらを見つめた。本当に心当たりがないらしい。
「今日、先生から電話があったよ。葵……またお友達を泣かせたんだって?」
こうして改めて口に出すだけで、思わず頭を抱えたくなる。
小学校に入学してからというもの、葵はこの手のトラブルを何度も起こしていた。今回は掃除の時間にふざけていた同級生をしかったうえ、手をあげて泣かせてしまったという。担任からの電話で初めてそのことを知った美花は、平謝りするばかりだったが、当の葵本人は一切悪びれる様子もなく、いつも通りけろっとしている。
「だってあの子、掃除の時間なのに遊んでばっかりだったんだもん。わたし、間違ったことしてないよ」
そう言う葵のまなざしには迷いのかけらもなく、むしろ自分の行動に対する誇りすら感じられた。
堂々とした娘の態度に、思わず美花は言葉を失う。
夫に似て四角四面なところがある葵は、いつも正しくあろうとしている。言ってしまえば、曲がったことが許せない性質なのだ。自分の前で掃除をさぼるクラスメートがいたならば、それを黙って見過ごすことができず、真っ向から間違いを指摘する。きっと、それが葵の正義感なのだろうし、事実、正しいことだと美花自身も思う。
だが、ときに真っすぐすぎる正義感は、融通が利かずに人を傷つけることもある。
同じような性格の夫なら、もっと葵の力になれたかもしれないが、夫は単身赴任中だ。たとえ完全には葵を理解できなくても、母親として地道に歩み寄っていくしかなかった。
「……そうね、さぼるのは良くない。でも、もう少し優しく注意する方法があったんじゃない?」
「言ったよ? それでも聞かないんだから仕方ないじゃん」
「でもたたいたらダメだよ」
「どうして? 先に悪いことをしたのはルールを守らない人のほうでしょ? 掃除はみんなでするものなのに、自分だけさぼるのってズルだと思う。ルール違反を放っておいてもいいの?」
葵の口調は毅然(きぜん)としていて、どこか非難めいていた。まるで美花が、その「ズル」に加担しているかのような物言いだった。