火事だ……!
その日の夜は、いつもにも増して静かな時間が過ぎた。少し焦げてしまったシチューを囲む食卓には沈黙が流れ、バラエティー番組から流れてくる笑い声がやけに大きく響いた。夕食を終えてからも、葵は黙ったままだった。4年生になってから通い始めた塾の宿題を自室で済ませ、風呂に入る。美花が話しかけても逃げるように背を向けてしまうので取りつく島がなかった。
「お母さん、おやすみ」
それでも就寝前のあいさつだけはしてからベッドに入るところは葵らしくほほ笑ましいが、そんな日常のひとコマすら、今の葵に無理をさせていることがまた心苦しい。
「おやすみ」
葵を見送り、1人きりになったリビングで、美花は冷えた発泡酒を開ける。アルコールで疲れと頭の片隅に残る悩みをうやむやにするなんて、きっと葵が見たら眉をひそめるだろうと自嘲の笑いが口から漏れた。
正しいだけじゃやっていけない――。そのことをどうしたら葵に分かってもらえるのだろうか。
アルコールの入った頭は判然とせず、まどろみのなかでは答えが出るはずもない。口から吐き出されるのはため息ばかりで、嫌になる。
このまま寝てしまおうかと、怠惰な気持ちが頭をもたげる。しかしその瞬間、美花のまどろみを切り裂いてしかるように、マンション中にけたたましい非常ベルが鳴り響いた。
飛び起きた美花は慌てて部屋から飛び出した。耳をつんざく音が何か尋常ではない事態を伝えようとしていることは明白だった。だがマンションの廊下には同じような人がちらほらといて、お互いに状況を理解できないままにクエスチョンマークの浮かんだ顔を見合わせる。
「火事だ……!」
やがて誰かが叫んだ。
「一階のテナントかららしい」
「逃げろ!」
降り出す雨のように声が続き、巣穴を突かれた蜂のように、あちこちの部屋から寝間着姿の住人たちが廊下へとあふれ出す。
「――葵!」
美花はその流れにあらがい、最愛の娘の名前を呼んで部屋のなかへと戻った。
●緊急事態の中で、葵は信じられない行動に出る――。その真意とは? 後編【「早く逃げないと!」突然自宅マンションが火事に…10歳娘が「非難を引き留めた理由」とは?】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。