秋の日差しが柔らかく降り注ぐ中、憲二は京都の古寺を訪れていた。

そっと境内に足を踏み入れると、全身がどこかひんやりとした静寂に包まれるのが分かった。都会の騒がしさから切り離された清閑な空間は、まさしく別世界。厳かにたたずむ本堂、時折聞こえる鳥のさえずり、敷き詰められた砂利を踏みしめる感触ーー。五感を通じて伝わるもの全てが心地よく、まるでこの寺が憲二を歓迎してくれているかのように感じられた。

ゆっくりと深呼吸をした後、憲二は本堂に安置されている仏像や仏画などを見て回った。

「これは見事だ……」

本堂から見える庭園に思わず感嘆の声を漏らした憲二は、気ままな1人旅の真っ最中だ。人生の大半を仕事にささげてきた憲二だが、6年前に早期退職を果たして以来、隠居生活を満喫しているのだ。

憲二が自身の老後について考え始めたのは、40代に入るころ。長年勤めてきた会社でのキャリアは安定していたが、忙しさの中で家族との時間が減り、将来の自由な生活に対する憧れが強まっていったのだ。そこで憲二は、アーリーリタイア、いわゆるFIREの目標を立てた。

まずは、貯蓄率を高めるべく、毎月の収支を徹底的に見直し、不要な支出を削減し、次に資産運用を本格的に始めた。

超低金利時代の現代、資産を銀行に預けるだけでは、早期退職など夢のまた夢。憲二は金融商品の知識を学んで、投資信託や株式を中心に分散投資を行った。常に市場の動向に注意しながら、リスクを抑えつつも長期的な視点で運用を続けた。その努力が実り、50代半ばには目標とする6000万円以上の資産を築くことができた。

そして、憲二は60歳を迎える前に会社を退職し、念願の自由な時間を手に入れたのだった。

最近は、主に神社仏閣を巡る旅に出ることが多い。いにしえの歴史に触れ、心の静けさを得ることは、忙しかった現役時代には手に入らなかったぜいたくだった。今の憲二にとって、この静かで穏やかな時間は何よりの安らぎだ。

妻の直美も、新しい生活スタイルに理解を示してくれているが、残念ながら憲二と一緒に旅に出ることは少ない。長年専業主婦として家庭を守り続けてくれた直美は、家を離れるのがおっくうだと言う。

FIREをしたら、まずは直美が行きたい場所を一緒に巡ろうと考えていたから、憲二は多少なりともショックを受けた。恋人同士だった若いころには、少しでも休みがあれば2人で旅行に出掛けたものだが、結婚して子供が生まれてからは、その機会も徐々に失われていった。憲二が家族のために、ますます仕事に没頭するようになったからだ。

しかし、“家族のため”に頑張れば頑張るほど、皮肉にも憲二は家庭から遠ざかった。その現状を打破しようと達成したはずのFIREだったが、退職後も家族と過ごす時間は思うように持てていない。

これはきっと、家族との時間をないがしろにしてきた憲二への報いなのだろう。

憲二は思わず口を突いたため息を濁すように立ち上がり、スマホを構えて風光明媚(めいび)な庭園をスマホで写真に収めた。