「カニ漁はロマンなんだ」
かつての父と同じ言葉を口にする弟の佑次に、幹也は何も言葉を返すことができなかった。
「俺は海に出るよ。兄貴。きっとそういう運命だったんだ」
幹也は出されたお茶を口に含んだ。ぬるく、渋いお茶が喉に引っかかった。
県内の都市部で会社勤めをしていた佑次が仕事を辞め、地元であるこの町に戻ってきたと知ったのは昨日の夜のことだった。幹也はすぐに連絡を取り、町役場での仕事を終えたその足で、佑次たち家族が暮らす家にやってきた。高校を卒業するや、地元を捨てるような勢いで出て行った佑次が戻ってきたことを疑問に思っていた幹也が理由を尋ねたところ、この漁港町でカニ漁を始めるのだと言いだしたのだった。
「運命だったんだって、お前、貴子さんと拓也のことはどうするつもりなんだよ」
「どうするも何もないよ。貴子は賛成してくれてる。まあ、家族と過ごす時間は減っちまうけど、うまくいけば月収250万だって夢じゃないんだ。サラリーマン時代の10倍だぜ? 拓也を育てんのにも金はかかるし、まだ若い今のうちに、稼いでおこうと思ってさ」
佑次の言っていることは確かに正しい。カニ漁はもうかる。もちろんそれは上物を水揚げできればという話であり、サラリーマンや役所勤めのような安定はない。だが言う通り、月収250万、漁の時期にむらがあるので年収にして1000万は、まったく手が届かない数字というわけではないことを、幹也もよく知っている。
それに、入り用だというのもたしかにそうなのだろう。
34歳で独り身の幹也と違い、佑次は去年子供が生まれたばかりだ。佑次たちがどんな教育方針で拓也を育てていこうと思っているのかは知らないが、たとえば仮に大学まで通わせるとなれば3000万以上もの金が必要という。小学校や中学校から私学に通わせたいなどと思うなら、その金額はもっと増えるだろう。稼げるときに稼いでおこうと思うのは、佑次が一家を背負う大黒柱として考えた1つの結論なのだろう。
勝手にすればいい、とも思う。兄弟とはいえ、もう2人とも30歳を超えた大人だ。カニ漁に出るという佑次の発言が、ロマンなんて曖昧な言葉でくくられるものでなく、妻と子供のことを考えた末の決断だということも理解できる。それに、いくら親族であっても人さまの家庭の考えに口を出すべきじゃないことも、幹也は重々分かっているつもりだ。
だがそれでも、カニ漁だけは選ぶべきじゃないという気持ちが、幹也のなかから拭えなかった。
「分かるよ。だけどさ、忘れたわけじゃないだろ。母さんのことも、あいつのことも」
幹也が吐き出した言葉の端々には怒気がこもっていた。太ももの上で拳を握る。奥歯を強くかみしめる。しかし佑次は幹也の感情をかわすように浅く笑った。
「なんだよ兄貴。いつの話してんだよ。もう15年も前のことだろ? いい加減、前に進もうぜ」
「……佑次。お前、本気で言ってんのか?」
「そんな怖い顔すんなって。いつまでも昔のこと気にしてさ。そういうのダサいんだよ」
佑次が吐き捨てた言葉が幹也の怒りに火をつけた。幹也は立ち上がって机をまたぎ、佑次の胸倉をつかんだ。眉間に力を込めてにらみ上げた幹也を、佑次は冷ややかな表情で見下ろしていた。
「離せよ、らしくない」
佑次の手が幹也の手をつかんだ。しかしそれでも、幹也は佑次から手を離さなかった。
「ふざけんなよ。佑次。俺は、俺はなぁ……!」
幹也は握った拳を振り上げた。