<前編のあらすじ>
娘・來未はアイドルの“推し活”に熱中し、グッズや遠征に多額のお金と時間を費やしてきた。理解しきれない母・英子は生活への影響を心配しながらも、夢中になれるものをみつけた娘を応援していた。
そんなある日、娘が信じて疑わなかった“推し”にまつわる衝撃的なスキャンダルが発覚する。娘は生きがいを乱され、これまでのあたりまえの生活ができなくなってしまう。英子は励まそうと必死に寄り添うが、娘の心は閉ざされて、無気力になっていく。
「推し活」を軽く見ていた英子は、娘にとって推し活は人生の生きがいであり、失えば日常生活が立ち行かなくなるほど大きな存在だったのだと気づかされるのだった。
●【前編】「ウソでしょ?」“推し活”にすべてを捧げる娘を襲った生活を狂わせるほどの「悲劇」
空っぽになってしまった娘
夜勤明けで帰宅すると、玄関に來未の靴が揃えて置かれていた。普段ならカラフルなスニーカーか、推しのグッズショップで買った限定コラボの厚底ばかりなのに、今日はごく普通の黒いスリッポンだった。少し違和感を覚えながらリビングに入ると、ソファに腰を下ろした娘が顔を上げた。
「おかえり」
「ただい、ま……」
彼女の姿を見て、英子は思わず息を呑んだ。
あれほど鮮やかな推しカラーの紫に染めていた髪が、今は暗い茶色に戻されている。ネイルも、いつもはラメやストーンで派手に飾られていたのに、今は素の爪がそのまま覗いていた。
「來未、その髪……どうしたの」
遠慮がちに問いかけると、彼女は小さく笑ってみせた。
「もう、推し活やめたの。ファンでいるの、疲れちゃったから」
英子は一瞬言葉を失い、そして安堵した。
度重なる炎上騒動の中で消耗していく娘を見るのは、母親として辛かった。やっと区切りをつけたのだと思うと、肩の力が抜けた。
「そう……似合ってるよ」
自然にそんな言葉が出た。
「ありがとう」
推し活の卒業にほっとしたのも束の間、それからというもの來未はまるで抜け殻のように過ごした。
食事の時間も、箸が止まることが多い。好物を作ってみても、2~3口食べただけで「お腹いっぱい」と皿を押しやる。何をしても反応は薄く、話しかけても気のない返事しか返ってこない。
「來未、大丈夫? 体調が悪いわけじゃないのよね?」
「ううん、体は元気。でも、なんか……何もやる気にならないんだ」
その声は深い井戸の底から響くようで、聞いている英子の方が不安になった。
「推しのいない人生って、空っぽなんだよね」
自嘲気味に呟いた彼女の言葉が、胸に突き刺さった。
英子は看護師として、患者が病気や事故で急に日常を奪われる姿を何度も見てきた。生活の張りをなくした人間がどれほど脆くなるかも知っている。でも、まさか自分の娘が“推し”を失うことで同じような虚無感に陥るなんて想像もしなかった。
「生きがいを失った人間って、こうなるのか……」
心の中で呟く。
信じがたいが、目の前の來未の姿が答えだった。
「來未、少し外に出てみたら? 友達と会うとか」
「……うん、でも、気分が乗らない」
彼女はスマホを握りしめたまま、何も表示しない画面をぼんやりと見つめている。
英子はため息をこらえながら、自分に言い聞かせた。娘が立ち直るには時間が必要なのだろう。ただ、親としては見守るしかないのだと。
英子は黙って食器を片づけ、リビングに戻ると、ソファでうたた寝をしている娘をそっと見守った。
かすかな寝息の中に、不安定さと脆さが滲んでいる。
――この子は、これからどうなるのだろう。
胸の奥で問いを繰り返しながら、英子は立ち尽くしていた。