夫が口にした“ある疑念”
夕方、瑛美は夫である拓郎に電話をかけていた。
「もしもしゴメンね、仕事は終わった?」
「うん、もう終わったよ。……でも驚いたな。まさかお義父さんが倒れるなんて……」
「うん。私も驚いたよ。でも単なる熱中症で、本人はもうけろっとしてる」
「そっか。よかったね」
「それで、今日はこっちに泊まるから。夜は出前か何かをお願い」
「遙香は知ってるのか?」
中学2年生になった娘の遙香は塾のため帰りは拓郎よりも遅い。
「一応メールはしておいた。だから大丈夫だけど、ご飯はお願いね」
「ああ、それは別にいいけど。お義父さんも何でクーラーをつけなかったんだろうな」
瑛美は呆れながら返す。
「節約だってよ」
「節約って言ったって、この暑さだよ? 5年前だけど、お義母さんのお葬式で帰省したときは、普通に暖房だって使ってたのに」
拓郎の指摘に瑛美はうなずく。
「ひょっとするとさ、お義父さん、お金に困ってるんじゃないか? ほら、今何かと話題になったりするだろ、“高齢者の貧困”みたいなの」
「そんなことないでしょう。公務員だったし、貯金もあるだろうし、年金だって十分もらってるはずよ」
「そうか。そうだよな。お義父さんに限ってそんなことはないか」
瑛美はその後、この後の動きについて拓郎に説明して電話を切った。
否定はしたものの、過剰な節約が茂人の堅実な性格と結びつかないことは事実だった。なぜわざわざ命の危険を冒しながら節約なんてしようとしたのだろう。瑛美には茂人が何をしようとしているのか理解ができなかった。
茂人は大事をとってひと晩入院することになったため、諸々の手続きを終えた瑛美は1人、久々の実家へと向かった。
一足先に帰っていた隣の和代おばちゃんにも再度お礼を言って、玄関の扉を開ける。埃っぽい茹だるような空気とともに瑛美を出迎えたのは、予想外の光景だった。
部屋が散らかっていた。脱ぎっぱなしなのか、取り込みっぱなしなのか分からない衣類はそのまま床でシワになっていた。机のうえにはコンビニ弁当の空容器が積まれ、ビールの空き缶があちこちに転がっている。漂う臭いは夏のゴミ捨て場さながらで、瑛美は思わず息を止めた。
父は片付けができない人間ではない。むしろ几帳面な性格もあってか、どちらかと言えば綺麗好きで、よくずぼらな母の掃除に文句をつけているようなことすらあったと記憶している。
だからこそ、この部屋の荒れっぷりが信じられなかった。
――何でクーラーをつけなかったんだろうな
――ほら、今何かと話題になったりするだろ、“高齢者の貧困”みたいなの
つい数時間前に拓郎と交わした会話がよみがえる。何が起きているのかはまだ分からなかったが、茂人に何かが起きていることだけは確かだった。
●父親の生活が荒れ果てていた理由とは一体何だったのか。後編【「何もないと言ってるだろ!」暑さで倒れてもクーラーを断固拒否、高齢父が娘に知られたくなかった“秘密”とは】にて詳細をお届けする。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。