突然始まったキャッチボール
「拓司」
呼ばれて顔をあげると、顔面にグローブが激突した。
「痛ぇな。何すんだよ」
「ちょっとキャッチボールしようぜ」
亨は拓司の返事を待たず、ボールを放った。拓司は慌ててグローブを右手につけ、ボールを捕った。
「練習用のグローブ、サウスポーの全然ねえんだもん。探すの苦労したわ」
亨の姿が見えなかったのはそういうわけか。
拓司はボールを投げ返す。
「文句言うなよ。誰のおかげで甲子園行ったと思ってんだ」
「そりゃ決まってるだろ。俺の決勝タイムリーのおかげだ」
「いや、俺が主にサードのエラーにもめげず、9回2失点で完投したからだろ」
ボールが投げ返されてくる。グローブに収まったボールは気持ちのいい捕球音を鳴らした。
硬球に触るのは野球を引退して以来だった。何度かボールを受けただけですでに手が痛かった。まるで鉄の塊だ。高校時代はそんなこと気にしたこともなかった。
2人は何も喋らず、グラウンドの隅でキャッチボールを続けた。だが、たとえ声は出さずとも雄弁だった。投げるボールには、楽しかった思い出も苦しかった思い出も、会うことなく過ぎていったこの10年の人生も、すべてが乗っかっているように思えた。
「なあ、なんでプロに行かなかったんだよ? ドラフトは確実だったんだろ?」
拓司はふと気になって口を開いた。
「んー、何でだろうな。大学でそこそこ活躍したけど、もういいかなって思ったんだよ。高校の時より気持ちが盛り上がる野球はできなかったし」
「え?」
「大学でも一線でやらせてもらってさ、すげえやつをいっぱい見てきたんだよ。それこそジャパンに選ばれるようなごついやつ。俺はそいつらみたいにはなれないし、ならなくていいかなって思っただけ」
「なんだよそれ」
返球したボールに、思わず力がこもった。バチン、と平手で殴ったような音が亨のグローブから鳴った。
「俺、正直野球自体はそんな好きじゃないんだよ。親父が野球好きでさそれでやらされてたってだけ。本当はサッカーやりたかったし」
「いやいややってあれかよ。才能自慢か?」
「別にそういうわけじゃねえよ。野球自体はそこまでだったけど、高校時代はいい思い出だしな。本気でやってたら、上手くなって、もちろん上手くいかないこともあったけど、楽しかった」
「お前はいいよな。そうやって、今も幸せそうで」
「全然。楽しくも何ともないよ」
「は?」
「仕事三昧だもんよ。楽しくねえよ。営業であちこち駆けずり回ってさ、ノルマだって厳しいし。辞められるなら今すぐにでも辞めてやるな」
投げ返されてきたボールを捕る。拓司はすぐに亨へ向けてボールを投げる。
「まあでも、続けてりゃ何かあるかなとも思う。全力で頑張ってたら、やりがいくらいは見つかるんじゃねえかなって。まあそう思ってたら5年も経っちまったけど」
「なんだよ、それ」
「だからお前も頑張れよ。とりあえず、頑張ってみろよ」
「余計なお世話だわ」
拓司は吐き捨てた。だが不思議と嫌な気分ではなかった。
亨がボールを強く放る。すっぽ抜けたボールは拓司の遥か頭上を通り過ぎていく。
「やべ」
「どこ投げてんだよ、ノーコン」
転々と転がっていくボールを追いかけながら、拓司は空を見上げる。あの日、甲子園で見た空と同じ色をしている。
9回2アウト。まだ人生は終わっていないと言われているような気がした。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。