小さな音楽プロダクションを経営しているんです
「なるほど。ちょっと聴かせてもらってもいいですか?」
「え?」
「せっかくの機会ですし。もしよかったら」
そう言われ、少し躊躇ったが、スマホを取り出し、自分の投稿した動画を再生した。
店内に流れる、自分の声。弾き語りの音。桜井は目を閉じ、静かに聴いていた。やがて、動画が終わると、ゆっくりと目を開け、洋幸を見つめた。
「……君の音楽は正直ですね。こっちが恥ずかしくなるくらい真っ直ぐで、だから
こそ聴く者の胸に響く。夢を追っていたころの自分を思い出しました」
その言葉が、なぜか妙に重く響いた。
桜井は静かにコーヒーを口に運び、それから洋幸を真っ直ぐに見つめた。
「良かったら、来週末のライブの前座で歌ってみませんか?」
「はい?」
思わず声が裏返った。状況が呑み込めない洋幸は手元に置いたままになっている桜井の名刺に視線を落とす。答えは、桜井の声と同時に訪れた。
「実はね、私は小さな音楽プロダクションを経営しているんです」
視線を上げて桜井の顔を見る。洋幸は息を呑んだ。
「うちは大手ほどの規模はないが、若手のアーティストの育成に力を入れてましてね。これも何かの縁だし、愚直に音楽に向き合う若い才能が埋もれてるのはもったいない。君さえ良ければ、ぜひ前座で、何曲か歌ってみませんか?」
驚きのあまり声が出なかった。
教えてもらったアーティストはかなり勢いのあるインディーズバンドのワンマンで、洋幸もよく知っていた。
「自分なんかでいいんですか……?」
洋幸の意思とは関係なく、そんな言葉が口を突く。桜井は真っ直ぐ、ぶれることのない視線を洋幸に向けている。
そうじゃないだろう。これはチャンスだ。何のために、親に心配をかけながらここまでやってきたんだ。
「……やらせてください」
気づけば、そう答えていた。微笑みとともに差し出された桜井の右手を握り返す。
これも重い。だが、心地よく張り詰めた重さだった。
洋幸は舞台袖の暗がりで手のひらに人の字を書いて飲んでいる。口を開くたび心臓が飛び出してしまいそうだった。
「緊張してるね」
肩を叩かれて振り返ると、桜井が立っていた。
「はい、そりゃもう……自分、こんな大勢の前で歌ったことなくて」
「大丈夫。君の実力は、私が保証する。全力でやってきてくれ」
桜井の言葉に背中を押され、洋幸はステージへと踏み出した。
ステージのライトがまぶしい。まだ何もしていないのに、熱気にあてられて汗が噴き出す。ギターを抱え、マイクの前に立つ。観客のざわめきが少しずつ静まっていく。視線が、ステージ上の洋幸に注がれる。
まだスタート地点。だが、ようやく掴んだチャンスだった。
洋幸は、深く息を吸い込んだ。
そして最初のコードを鳴らした。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。